八日目「不思議・良い口実・巻き上げた」

 よく、風のイタズラなんて表現があるけれど、まさにこれはイタズラな風が起こした出来事だと思う。すぐ近くにある尾形くんの顔にソワソワと目を逸らしながら、私はそんな事を考えていた。
 
 学内で、次の講義へ向かいために急ぎ歩いていた時だった。反対方面から歩いてくる尾形くんが目に入った。あまり話したことはないけれど、密かに気になっている彼の姿に心をときめかせる。おはよう、なんて声をかけられたらいいのにな。ああでももうおはようと言うには遅い時間かな、だけどこんにちはもなんだか変だもんな。そんな事を考えていると尾形くんの隣を通ってすれ違うはずが、気がついたら尾形くんの目の前まで進んでしまっていた。
「あ……お、おはよう」
「ああ。……もうおはようという時間でもないがな」
「あ、あは。そうだね」
 結局出てきた挨拶はおはようで、ああ私の馬鹿! と思いながら、そっと尾形くんの右隣を抜けようと体を動かす。だが、同じタイミングで尾形くんも同じ方向へ体を動かしてしまい、また対面する形になる。ならば、と左側に体を動かせばまた尾形くんも、と何度か私たちは同じ方向に動いて相手を避けようとした。
「……おい」
「あ、あはは、ごめんね。えっと、私が、こっちに動くね」
 そう言って右側を指さして笑う。なんだか不思議な時間だったけど、尾形くんと向き合って少しお喋り出来てちょっとラッキーだったな。そんな事を考えながら彼の隣を歩こうとしたその瞬間、ビュッと強い風が吹き、私の髪を巻き上げた。突然のことに支えられなかった体が、わずかに尾形くんのいる方向へとよろける。
「あっ!」
「……っ」
 気付けば私は尾形くんの胸の中……なんて事にはならなかったが、代わりに私の髪が彼の胸元のボタンに絡まってしまっていた。
「わ、ご、ごめん! すぐに取るね!」
「おい、そんなに引っ張るな。千切れるぞ」
「あ、ああごめん! 大丈夫、ボタン取れないようにするから」
「違う、お前の髪がだ」
 慌てて髪を引っ張り離れようとする私に、いいから落ち着けと頭上から彼の声が落ちてくる。耳障りのいい彼の低音をこんなに近い距離で聞くのは初めてで、思わずぞくりとする。顔をゆっくりと上げれば、ずっと遠くから見て憧れていた彼の顔が、真剣な表情を浮かべて私を——正確には、私の髪を、見下ろしていた。
 尾形くんの骨ばった指先が優しく私の髪に触れ、ゆっくりと絡まった部分を解していく。予鈴の音が響き渡り、尾形くんにも講義があるのではと思い焦る。
「い、いいよ私の髪なんて! 適当にブチっと千切っちゃって! あ、それかハサミ持ってなかったかな私」
「俺は別に多少遅刻しても大丈夫だ、気にするな」
「で、でも……」
「あともう少しだからちょっと黙って待ってろ」
「は、はい……」
 真っ黒な彼の瞳がジロリと私を見下ろすので、それ以上は何も言えなかった。私の髪に触れる彼の指先をじっと見つめる。私の指より太い彼の指先は、それでも器用にボタンに絡まった髪を解放していった。
「ほら、これでいいだろう」
「わ、ありがとう。ごめんね」
「お礼」
「え?」
「お前の綺麗な髪を守ってやったんだ、何かお礼はないのか」
「え、えぇ? 何それ」
「どうせ講義に遅刻するんだ。五分も十分も変わらんだろう。ちょうど喉が乾いてたんだ」
 そう言って尾形くんは近くの自動販売機を指差した。まあ確かにこの後の講義は比較的温和な教授のものだし、多少の遅刻は大丈夫だろう。それよりも尾形くんと少しでも過ごせるのなら、私だってそっちの方がいい。
「はい、どれがいいですか」
「んじゃこれ」
「このラインナップの中わざわざ一番高いのですか」
「髪は女の命って言うんだろ? 安いもんじゃねえかこれくらい」
「えぇー?」
 自動販売機の中で一番高いエナジードリンクのボタンを押しながら、尾形くんとお話できるなら安いもんですよなんて思った。
 そんな私の気持ちを知ってか知らずか、俺としても良い口実になったよ、とポツリと呟いた言葉が耳に届く。もしかしたら、気のせいかもしれないけれど。
 こんな不思議な時間が、もう少しだけ続けばいいなと思いながら、私はほんのりと温かいココアを口に含んだのだった。