十日目「抱える・奪われた・寂しさ」

 居酒屋の賑わう声は嫌いではない。半個室となっている状態でも聞こえる隣の声に時折耳を傾けながら飲む酒は、割と好きな方だった。向かいに座る男はどうだかわからないが。
 だが、今日はなぜか周囲の音が一切耳に入らないような気がした。目の前に座る男の、ある一言を聞いてから。

「今度仕事で関西に行くことになった」
 
 そう言ってぐいっとビールを飲み干した男は、尾形百之助という。私たちは飲み友達だ。元々同じ職場の同僚で、私が別の職種へ転職した後も定期的にどちらからともなく呼び出しては飲みに行く、それだけの関係だった。私としては、少なからず恋愛感情を抱えていたのだが、そう言ったものを見せると途端にこの関係が終わる気がして、私は今日もひた隠してこの席に座っている。
 そう、それだけのはずだった。
 
「え、出張? 関西にも支社が増えるって言ってたもんねこの間」
「出張というか……まあ」
「えー、いいな。大阪? 京都?」
「神戸」
「神戸かー、神戸土産ってなにが有名なんだっけ」
「サラッと土産を期待するな」
「何日行くの? 二泊三日くらい? あ、一週間とか?」
「……そんなに短くない」
「えっ?」
「それなりの期間でな。お前ともしばらくは飲みに来れないだろう」
 『神戸土産 有名』なんてスマートフォンで検索をかけようとしていた指が止まる。それなりの期間、しばらく飲みには来られない。尾形が言った言葉を理解するために、頭の中で復唱した。
「え、あーそうなんだ。そりゃ大変だ。じゃあ今日のこれは送別会みたいになっちゃうな」
「……まあ、その内帰っては来るけどな」
「ふ、ふーん。そっか、じゃあお土産は期待出来ないか」
 ははは、なんて乾いた笑いを浮かべて尾形を見る。真っ黒な瞳からは、今彼がどんな感情でこちらを見ているのかが窺い知れない。彼なりに、少しは寂しいなんて感じてくれているのだろうか。
「え、いつから行くの?」
「明後日の日曜に、飛行機で」
「明後日!? そりゃまた本当に急だ」
「おかげで準備が大変だ」
「えーそんな時に呼び出しちゃって悪かったね」
「気にするな、行く前にお前と飲みたいとは思ってたからな」
 不意にそんな事を言われてドキリとするけれど、涼しい顔をしてお通しに箸をつける彼の姿を見るに、「ただの飲み仲間」としかやはり思われていないのだろうなと感じる。胸がちくりと痛んだ。
 
 その後は、何を飲み何を食べたのかあまり覚えていない。いつものように仕事の愚痴を聞いてもらおうなんて思っていたのに、そんなのすら吹き飛んでしまった。そもそも何を話したのかもあまり覚えていない。だけど、別れ際尾形が何時の飛行機に乗るのかだけはしっかりと聞き出して、頭の中に記憶しておいた。
「なんだ、見送りにでも来てくれるのか」
「えー? 来てほしい?」
「別に、そんな事はない」
 ほんの少し赤ら顔をした尾形が、自身の頭を撫で付ける。ああ、きっと見送りに来て欲しいんだと、なんとなく私は思った。自意識過剰かも知れないけれど。
「仕方ないなあ、私はとーっても忙しいのだけれど、もし時間があって気が向いたら行ってあげよう」
「ハッ、なんだそれは」
 口ではそう言うけれど、尾形の口元が上機嫌に弧を描いたような気がした。
 
 そして、日曜日。前日の土曜、散々悩んだ挙句、私の足は茨城空港へと向かっていた。もちろん、尾形の見送りの為に。
 付き合ってもいないのにこんな所まで本当に見送りに来たのかと思われるだろうかとギリギリまで思いとどまったのだが、もうしばらく会えなくなってしまうと思うとどうしようもなく会いたくなってしまったのだ。
 せめて空港行きの駅へ見送りにすればよかっただろうかと思いながらも、聞いていた搭乗時間より早い時間に空港へと到着した。会わなくても、せめて一目だけでも尾形を見れたらなんて言う思いさえあった。我ながら少し重い気もするが。
 
 キョロキョロとしながら尾形の姿を探すが、広くはないけれど狭くもない空港内ではなかなか見当たらず、流石に無謀だったかと肩を落とした。何をやっているんだか、と踵を返そうとしたところで声をかけられた。
「……本当に来たのか」
 声のした方を見れば、そこには探し求めていた人がいた。たった今諦めようとした心が、安心してほぐれていく。
「おがたぁ」
「ははぁ、どうやら暇だったらしいな?」
「……うん、暇だったから、来てやった」
 思わず緩んでいく涙腺。涙声になりながら、私は尾形へと一歩、また一歩と近付いて行く。
「なんだ、泣いてるのか?」
「泣いてないよ」
「泣いてるだろ」
「泣いてない」
「……寂しいのか」
 ぽつりと、確認するように尾形は言った。
「べ、つに、さみしく、なんか」
 私たちはただの元同僚で、飲み友達で。だから、こんな場所にわざわざ来て寂しいなんて言うのは、お門違いで。そうわかっているのに、わかっていたのに、止まらなかった。
「……寂しくなんか、ある」
「ははぁ、なんだその日本語は」
「うるさいなぁ」
 ついに堪えられなくなって零れ落ちた涙を見られないように顔を下に向ける。尾形が今どんな表情をしているかなんて私にはわからないけれど、きっと呆れた顔をしているんだろう。もしかして困り果てているかも知れない。そんな事を考えていると、尾形の綺麗に磨かれた革靴が私の真ん前まで近付いていたことに気付く。
「ったく」
 そう頭上から声がしたかと思うと、私の体は不意にバランスを崩した。気がつけば私は、尾形の腕に中にすっぽりと包まれていた。
「……へっ? おが、た?」
「お前は、もう少し素直になったらどうだ」
「え、え?」
「チッ。会えなくなるのが寂しくて、会いたくて来たんじゃないのか」
「……う、ん」
「だったらそう言え」
「……だって、」
「だってなんだ」
「だって、私たち、別に付き合ってるわけじゃなくて、ただの飲み友達で」
「付き合ってれば素直になるのか?」
「は、え?」
 尾形が何を言っているのかわからなくて、泣き顔だと言うのに思わず顔を上げる。と同時に、私の唇に尾形の唇が触れた。
「しょっぱい」
「え、おが、え? 今、なんで」
「ったく、お前はどこまで」
「え?」
「いい加減、俺の事が好きだと言え」
「え、なっバレてたの!?」
「とっくの昔にな」
 意地悪く彼は笑う。だけど、ねえ、それじゃまるで。
「……ねえ、おがた」
「なんだ?」
「尾形も、私の事好きなの?」
「……わからんのか」
 そう言って、もう一度私の唇は奪われた。先ほどよりも、ほんの少しだけ深い口付け。私と同じくらい素直じゃなくて意地っ張りな彼の、精一杯の答えな気がした。
 
「両想いなのなら、もっと早く知りたかった」
「ほぅ?」
「だって、わかってすぐに遠距離恋愛だなんて」
「なんだ、お前はたったの一ヶ月も待てんような女なのか」
「まあ関東と関西くらい近——……待って、一ヶ月?」
「ああ、そうだが?」
「え、だってそれなりの期間って。しばらく会えないって」
「ここ最近は月に二・三度は飲みに行ってただろう。一ヶ月となるとだ」
「……待って、もしかして私嵌められた?」
「お前が勝手に勘違いしたんだろう」
 そう言ってニヤリと笑う彼。いやもう絶対確信犯。
「まあ良かったよ。お前がこうやって寂しがってくれて」
「はぁ、もう、信じられない」
「そう言うな。俺としても賭けだったんだからな」
 相変わらず甘くもない二人の会話。だけど、その間に繋がれた手がこれまでの関係との違いを表しているようだった。
 搭乗時間が来て、彼の背中を見送って。やっぱりちょっと寂しさを抱えるけれど、それでも昨日まで感じていたものとはすっかり違う。家へ向かう電車に乗りながら私は手帳を取り出し、尾形の戻って来る予定の日に、大きな花丸を付けたのだった。