始まりはほんのお気持ちから

 週に二、三度でいいから助っ人に来てくれないかい——そうおばさんから電話を貰ったのはちょうど一年前のこの時期だった。
 
 大学時代の四年間アルバイトでお世話になった弁当屋は、夫婦で営む個人経営店である。安くてボリュームがある弁当と、弁当屋には珍しく夜遅くまで開いているのが売りの店だが、どうも夜間に入っていたアルバイトの子が一人急に辞めたらしい。
 既に社会人となり昼間働いている身としては若干きついものがあったが、アルバイトを辞めた後も交流があり長年お世話になっている二人の頼みとあっては力になりたいと思い二つ返事で了承した。
 幸い勤務先は、業務に差し支えなければ副業も可という社内規定であり、念の為上司に事情を説明し許可を得て、万全の体制で手伝いに臨んだ。まあ、まさかそれが一年以上にも及ぶとは思ってもいなかったのだが。
 
 最初は店先で注文を取るだけだった手伝いは、次第に腰を悪くしたおじさんの代わりに盛り付けも手伝うようになり、結局レジ締めも行うようになりおばさんが調理で他は私という状態だった。日中も仕事をし、客自体は少ないとは言え夜間もそれだけの業務を行うとなると若干苦痛を感じるようになってしまう。彼が客として訪れるようになったのは、ちょうどそんな頃だった。
 
 閉店時間まであと十五分、という時間に扉が開き一人の男が入ってきた。坊主頭に草臥れたスーツ姿のその人は、顔色も悪く、睡眠や食事がちゃんと取れているのだろうかと思わず心配になる様子だった。
「すみません、まだ頼めますか」
「はい、中には終わっちゃってるものもありますが……何になさいますか?」
「では、唐揚げ……いや、生姜焼き弁当を。ご飯大盛りでお願いします」
 注文の際、彼がちらりと奥の厨房を見たのに気付いた。ちょうどおばさんが揚げ物油の片付けを始めているところで、それを見て気を遣ったのだという事が読み取れた。
「あ、ちょっと待って下さいね。おばさーん、唐揚げまだ間に合いますかぁー?……はーい。大丈夫みたいですけど、どうされますか?」
 急に振り返り大きな声を出した私に吃驚したような顔をした後、ぺこりと彼は頭を下げる。
「すみません、じゃあ特盛唐揚げ弁当を」
「はい、ご飯は大盛りですか?」
「はい、お願いします」
「では少々お待ちください。おばさーん特盛唐揚げ入りまーす!」
 先に会計を行い、よければあちらで、と壁際に置いてある椅子を案内してから厨房に入る。せっかくだからあんたも今日唐揚げ持って帰んなさいよ、とおばさんが多めに唐揚げを揚げてくれていた。ラッキーという気持ちでご飯や副菜をプラスチックのケースによそっていく。
 ちらりとカウンターから先程の客を見てみると、ネクタイを緩め椅子に浅く座り、そのまま背中を壁に預け今にも寝てしまいそうだった。男性の平均身長よりも小さそうな彼が、なんとなくより小さく見えた。
 こんな時間まで残業して余程疲れているんだろうな、と何故だか初めて会うはずのその人に何かしてあげたい気持ちになって、おばさんには内緒でこっそり唐揚げを一つおまけして入れておいた。ここの唐揚げは絶品だから、これでも食べて元気出してねお兄さん、と心の中でエールを送って。
 普段ならば絶対にしない事だったが、日中と夜間との仕事で少し疲れていた私に、その姿は見て見ぬふりを出来なかったのだろうと思う。
 
 彼を再び見たのは、次の出勤日である翌々日だった。私の姿を見るとはっとした顔をした彼は、メニュー表に目を通すより先に私に向かって口を開いた。
「あの、先日は……」
「はい?」
「いえ、もし勘違いや手違いなだけでしたらいいんですが……その、どうも一つ多かったようで」
「はぁ……」
「その、唐揚げが」
 先日勝手におまけをした事もすっかり忘れかけていた私に、彼がボソボソと告げる。
「へ、あーあははそうでしたね」
「あの唐揚げがあまりに美味しくて、昨日も頼んだところ数が少なくて。メニュー表を見ると、特盛は唐揚げが六個のようだったので……」
 律儀な客だなぁ、と思いながらも軽率な行動をしてしまった事を後悔した。おじさんもおばさんもそんな事で怒るような人ではないが、他のお客様の手前あまり褒められた事ではない。
「お疲れのようだったので、勝手におまけしたんです。すみません、これは内緒で」
 小声で彼に告げると、この間と同じように吃驚したような、少しキョトンとしたような顔をした後、それはそれは、ありがとうございました、と小さく微笑んだ。あ、笑うと可愛い顔をするなこのお兄さん、と静かに私の心が跳ねた。
「今日はどうされますか、おまけはもう出来ませんけど」
「ふ、大丈夫です。じゃあ、今日は焼肉弁当で」
「はい。おばさーん、焼肉一つ入りまーす。……あ、ご飯は大盛りですか?」
「ああ、はい。お願いします」
「はい、では少々お待ち下さい」
 先日と同じ様に椅子に座り出来上がりを待つ彼をちらりと見る。心配になる程だった顔色は少しよくなっているような気がした。時間もこの間よりは随分早い。よかったなぁ、とご飯を大盛りによそいながら思う自分に気付き、不思議な気持ちになる。様子が気になる常連のお客様も少なくはないが、昨日今日訪れるになった客の事をこんなに気にかけた事は初めてだったのだ。
 まあ、それだけ彼が疲れて見えたという事だろうな、と考えが落ち着いたところで弁当が出来上がり彼に受け渡す。またのお越しをお待ちしております、といつも通りの言葉に、思わずいつも以上に気持ちを込めていた事にこの時の私は気付かないでいた。
 
 結局、この日からほぼ毎日のように通ってくれるようになった彼を心待ちにするようになった自分に気付くのは、もう少し先の話。