美味しい珈琲を二人で

「あれ、百之助くん引っ越しするの?」
 美味しそうな珈琲の匂いを鼻で味わいながら、何度も訪れた彼の部屋で寛いでいると住宅情報誌が目に入った。いくつか付箋を綺麗に貼ってあるそれに、割と几帳面なのよねと手を伸ばす。百之助くんがペアで買ったマグカップに珈琲を淹れてこちらへやってくる。私がパラパラと情報誌を捲るのを見て彼の瞳孔がキュッと細くなる。
「あ、珈琲ありがとう。ねぇ、引っ越すの?」
「あぁ……まあ。そろそろここも更新の時期だし、ちょうどいいかと思って」
「そっか。どこか遠くに行くわけじゃ、ないよね?」
「そういう訳じゃない」
「それならよかった!」
 
 百之助くんの仕事はたまに出張はあれど転勤は少ないと聞いていたが、まったくない訳でもないらしい。もしかして離れてしまったら、と一瞬不安が過ぎったが、百之助くんの言葉を聞いて安心する。そもそも情報誌がこの辺りの地方向けのものである事に気付いて、恥ずかしくなる。
「あれ? でも、付箋付けてる地区全部百之助くんの職場からちょっと遠くならない?」
「そうか? 今と変わらんだろ」
「なんとなく。私の職場からは近くなるけど」
 黒いソファーに腰掛け、マグカップを持つ手とは反対の手で百之助くんは自分の髪を撫で付ける。じっと何か考えるようにこちらを見ながら、彼は氷が二つ浮いて揺れる珈琲を少し口に含んだ。熱々で少し濃いめの珈琲に二つ三つ氷を入れるのがやや猫舌の彼流のいつもの飲み方だ。
「……条件的に良さそうなのが、たまたまその辺だっただけだ」
 やっと口を開いた彼は小さくそう言った。
 
 私の会社と百之助くんの会社は取引関係にあり、受付嬢をやっている私は百之助くんが来訪する度に心惹かれていった。様々な事情が重なり百之助くんの勤める会社との取引がなくなるという噂を聞いた時に、思い切って食事に誘ってから何度かデートを重ねて付き合うようになった。それからもうすぐ一年経つ頃である。
 お互いの会社はそれなりに近いが、それぞれ借りている家が会社を挟んで反対方面、それもやや遠くである為会うのは週末にどちらかの家に行くというパターンが多かった。本音を言うともう少し会えたら嬉しいが、私よりも激務な彼に翌日も仕事という日に食事だけでも誘うのは気がひけるというのもまた事実であった。それがもし百之助くんが今付箋をつけている辺りに引っ越してくるというのなら、互いの家に行きやすくなるのではないだろうか。いや、それならばもはや……
「ねえ、百之助くん。一緒に住もっか」
「……は?」
「あ、でも百之助くん結構家とかこだわりありそうだし、人と住むのとか嫌なタイプ? 近くに住むくらいがもしかしてちょうどいいのかな」
「いや……お前はいいのか?」
「ん? うん、まあ私ももうちょっとしたら更新時期だったはずだし、ありかなーって」
「初めての一人暮らし、満喫してるんじゃないのか?」
「んん? あー、まあそうだけど」
 探るように私を見つめる百之助くんに、そう言えばいつだったか話した事のある会話の内容を思い出す。少し過保護な両親に育てられ一人暮らしをなかなか許してもらえず、就職先も実家から通える場所をと強く言われてそれに従った。けれどそこでのパワハラに耐え兼ね転職を決意した時に、やんわりと反対してくる親を押し切って市外の職場もいくつか受け、そして採用してもらった今の職場近くに部屋を借りて一人暮らしを始めたのだった。それが三年半程前の事。確かに一人暮らしは気楽だが、十分満喫したとは思っている。
「一人暮らしも楽しいけど、もっとたくさん一緒に居たい人が出来たからなあ」
 そうちらりと隣の百之助くんを見て言えば、眉を顰めながら髪を撫で上げる百之助くんが小さく呟く。
「てっきりまだ一人暮らしをしたいんだと思ってた」
「百之助くんは一緒に住むの嫌?」
「……なんで俺がその辺ばかりに付箋付けてると思って」
「ん? 条件がよかったんでしょ?」
「俺の第一条件は、お前に会いやすくなる家だ」
 そう言って百之助くんはずずっと珈琲を啜る。いつもと変わらぬ表情なのに、少しだけ耳が赤くなっている彼に思わず頬が緩む。そんな彼が嬉しくなって、私もまだ少し熱い珈琲を口に含む。彼の淹れる珈琲はいつだって美味しい。
「ふふ、じゃあもう少し広めの家だと条件ぴったりになっちゃうね」
「ああ、そうかもな」
「どんな家がいいかなぁ」
 百之助くんの肩に頭を乗せながら、住宅情報誌のページを捲っていく。私の腰を抱き寄せながら、ここなんかどうだという百之助くんと二人で暮らす未来を思い浮かべた。
 願わくば、毎朝二人で彼の淹れた珈琲を飲めますように。

同棲誘うシチュ好きなんですよね。尾形って珈琲入れるのにこだわりありそうなイメージあります。
初出・2022/09/10