I love youの訳し方

『飯、もう作ったか?』
 メッセージが届いたのは、もう少しで家に着くという頃。そういえば急に残業になった事を連絡してなかったなと思い、信号で立ち止まったタイミングで返事を打ち込んだ。
『まだ。今日急に休みになった子がいて残業になっちゃったの。もう少しで家着くから急いで作るね』
 送るとすぐに既読がついて、『まだなら、作らないでそのまま待っとけ』と返ってきた。なんだろうと思ったけれど、信号が変わったので了解とだけスタンプを押して足を進めた。

 帰宅してエコバッグから食材を取り出し冷蔵庫へしまい込んだ。勤務先がスーパーだと休憩時間や仕事終わりに買い物が出来て助かるが、つい目についたものを買ってしまうのがよくない。お月見のお供にというポップに釣られて手にしたお団子のパックをテーブルの上に置いて、ベランダへと出た。見上げれば雲がほとんどない藍色の空に、まん丸に近くて少し惜しい月が浮かんでいた。そうか、中秋の名月だからと言って満月というわけではないんだったっけ。
 ぼんやりと見上げてると、下から聞き慣れた足音が耳に届いた。上半身を乗り出して確認すると、疲れた足取りの百之助が何か袋を下げて歩いている。流石に気付かないかなと見つめていると、百之助は道路を挟んで向かいのアパートをチラリと見上げた。つい先月まで私が住んでいた部屋だ。ほんの数秒眺めた後、今度はこちらを見上げたのでドキリとした。暗くて表情までは見えなかったけど、ひらひらと手を振ると髪を撫で付けるその姿にほんの少しの照れが混じっているように思う。今までもあんな風に私の部屋を見上げながら帰路につく日があったんだろうか、そう考えるとほんの少し胸がくすぐったくなった。
 マンションの中へと入っていく彼の姿を見送って、私も向かいのアパートへと視線を落とした。まだたった一ヶ月なのに、もう随分と前からここに住んでいるような気がする。まあ、引っ越しをする前からほとんど半同棲状態だったから当たり前と言われたらそうなのかもしれないけど。
 
 勤め先のスーパーは、ここから徒歩で約十分。閉店ギリギリの時間によく見かけていた顔色の悪いサラリーマンが向かいのマンションに住んでいると知ったのは、一年と少し前の事。常連の顔というのは自然と覚えてしまうもので、中でも彼は印象に残っていた。遅い時間に来ては、いつも割引シールの貼られてもなお残っている不人気のお惣菜やお弁当、もしくは栄養補助ゼリーやエナジードリンクといういかにも不健康なものばかりを買っていくのだから。流石に一週間連続でざるそばか冷やし中華を買って行った時にはその内あのお兄さん倒れるんじゃないかと心配になった。
 そんな矢先、閉店作業を終え帰宅途中に道端に座り込んでいる百之助を見つけて声を掛けたのが私たちの始まりだった。
 知人ではないが知らない人でもない彼を見て見ぬふり出来ず、家が近くだから気にするなという彼にせめて帰宅するまで送らせてくれと食い下がった時に、初めて私は彼の家を知った。それからはあっという間。お節介とは思いつつ、元々彼の体調が気になっていた私は、閉店間際に彼が来店すると声をかけ一緒に帰宅するようになった。時にはもっと栄養のありそうなお弁当を勧めたり、時には作り過ぎたおかずを分け与えたり。それがいつの間にか一緒に食べるようになり、休みの日にも会うようになり、食事以外でも共に過ごす時間が増えていった。あの時座り込んでいたのはただの夏バテによるめまいだったようだが、すっかり顔色が良くなった百之助に安心した頃には、ほとんどどちらかの家で過ごすようになっていた。と言っても、大抵は私より広い部屋に住んでいる彼の家だったけれど。

 カラカラとガラス戸が開く音がして振り返ると、シャツのボタンを緩めた百之助が立っていた。
「何してんだ、そんなところで」
「へへ、月が見えるかな〜と思ってさ。おかえり」
「せっかくだし、ここで食うか」
「ん?」
 そういえばさっき何か持っていたんだっけ。そう思っていると、百之助が折りたたみ式の小さな椅子を二つ持ってきた。今年の春にお花見用にと買ったものだ。訳もわからず椅子を開いていると、一度部屋へ戻った彼から黄色で大きくMと印字された紙袋を差し出された。
「えっ、もしかして」
「お前、食いたいって言ってたろ」
「やったー、月見バーガーだ! パイもある!」
 中を覗けばハンバーガーが二つと、ポテトとパイが一つずつ。それからドリンクの入ったカップが二つ別の袋に入っていた。一つはコーヒーで、もう一つは私がいつも頼むもの。百之助にコーヒーを渡そうとして、まだ彼がスーツ姿だということを思い出した。
「あ、着替えてくる?」
「腹減ったからこのままでいい」
「そっか」
 そう言ってコーヒーを受け取った百之助は、サンダルを履いて椅子へと座った。ポテトとハンバーガーを掲げると、丸い包みを指差したから差し出して私は細長いポテトを口へと運んだ。何本か食べてから、私もハンバーガーの包みを開けて頬張る。
「ん〜、おいひい」
「ったく、花より団子だな」
「花じゃなくて月だけど。あ、そうだお月見団子も買ってたんだった」
「どんだけ綺麗なもんでも、お前の前では団子に負けるな」
「どうせ食いしん坊ですよ」
 色気のない会話を交わしながらも、私たちの手のひらの月は半分になり三日月になり、あっという間に包み紙だけになった。もう一、二本ポテトを摘んでから百之助に渡して、最後に残されたパイを手に取った。
「このお月見パイが美味しいんだよね」
「団子もあるんじゃなかったか」
「お団子は明日まで大丈夫。満月は明日だから、明日にしよう」
 明日も月見かと少し含みを持たせた言い方をしながらも、その声がどこか楽しそうに感じるのは気のせいだろうか。
「明日も天気、いいのかな」
「晴れるらしいぞ」
「そっか、よかった。明日も綺麗な月、見れるといいな」
 パイを頬張りながらそう言った後で、あぁこれ有名なあれみたいだなと思う。そんなつもりはなかったけど、思い出したままに口にした。
「夏目漱石だっけ。アイラブユーを月が綺麗ですねって訳したやつ」
「ああ。だけどあれ、そんなこと言ってないとか言う説もあるぞ」
「え、そうなの?」 
 そんなやり取りをしながら、そういえばこの人からちゃんとした愛の言葉をもらった事がないと気付いた。まあ私もあまり愛情表現をするタイプではないけれど。もし彼がアイラブユーを彼なりに訳すとしたら、それは一体どんな言葉になるんだろう。そんな事を考えて、彼の横顔を眺める。月を眺めながらポテトを咀嚼した彼は、出会った頃に比べたら随分と顔色が良くなった。あんなに食が細くて、というか食べる事自体に興味なさそうで、とりあえず生きるために最低限の栄養を摂っていますという感じだったのに。しみじみと思っていると、そんな私の視線に気づいたのか、訝しげな目で百之助はなんだとこちらを向いた。
「ん? いや、百之助ちょっと顔が丸くなったかなって」
「なんだ藪から棒に。太ったと言いたいのか」
「そうじゃなくて、前がげっそりしてたからさ。健康的になってちょうどいいと思う」
「言っとくけど、お前だって体重増えてるだろ」
「うっ、それは、でも、ほんのちょっとだし、誤差の範囲内くらいだし」
 半分くらい齧ったパイを思わず遠ざけ、自分の腹部へと視線を落とす。元々食べるのは好きな方だが、百之助に食べさせようとあれこれ作り過ぎた結果自身も食べ過ぎた自覚はあるのだ。洋服のサイズも変わっていないし見た目はそんなに変わっていないと思ったが、もしかしてやばかっただろうか。
 悩ませる発言をした当の本人は小さく鼻で笑った後「見た目はそんなに変わってねえよ」と言い放ってからパイを持った私の手を掴み、自分の方へと引き寄せた。包みから出た部分をがぶりと大きな一口で食べられ、思わず「あっ」と声が漏れる。
「百之助も欲しかったの? 言ってくれたらあげたのに。まだいる?」
「いやいい。甘いなこれ」
「そりゃあね。もう、甘いのそんなに好きじゃないのになんで取ったの」
 CMを見た時から甘そうだと言ってたくせに、そう言い放つ百之助にくすくすと笑うと、コーヒーを飲み干した後彼は口を開いた。
「お前が食ってると、なんでも美味そうに見えるんだよ。お前といると、なんか知らんが腹が減る」
 おかげさまで体重も増えちまった。そう続ける百之助を見て、私の胸はじんわりと暖かくなっていった。
 あんなに食が細くて、食べる事に興味がなかった彼が。食べるのが大好きな私の影響で、私を見るとお腹が空いて食べたくなるなんて。
 ちっとも色気のない言葉なのに、それが私には彼からのアイラブユーに聞こえてならなかった。
「なんだよ」
 また訝しげな表情を向けられるけれど、私の頬は緩んだままだった。
「なんでもないよー」
「変なやつ」
「ふふ、ねえ百之助」
 ん? と返事をする彼の肩へ頭を寄せて、私は月を見上げた。
「これからも、美味しいもの二人でたくさん食べようね」
 百之助にそんなつもりはなくっても、私にはそう聞こえたのだから、私なりに返させてね。これが私の、君へのアイラブユーだから。

初出・2024/09/24
久しぶりに一本勝負やイベント作品以外でSSを書きました。
秋の味覚って美味しいものばかりで困ります。うれしい悲鳴。