第六話 その輪郭に触れさせて
あの後は講義もバイトもこなしたが、正直な所あまりどうやって過ごしたか記憶に残っていなかった。そしてまた、金曜日の朝が来る。いつもならば朝の身支度を済ませる時に一緒に尾形くんの着替えを綺麗に畳み直して脱衣所に出してあげていた。それももうしなくていいのだ。置かれて行った尾形くんのスウェットやタンクトップ、歯ブラシやメンズ用の洗顔料、これらをどうしようかとぼんやり考えながら、家を出た。
幸いな事に今日は一日尾形くんの姿を見なかった。ほっと胸を撫で下ろし、帰り支度をする。バイトもなく、一人で過ごす金曜日の放課後は久しぶりで、心がざわついた。一人家でテレビを付けると色んな事を考えてしまいそうで、誰かを誘って遊びにでも行こうかと思っていると杉元くんに声を掛けられた。
「あ! ちょうどよかった。ねぇ、この後暇?」
「杉元くん。うん、今日はバイトもないし、空いてるよ。どうしたの?」
「この後白石達とカラオケ行くんだけどさ、よかったら一緒に来ない?」
「カラオケ?」
「うん。ほら、前に話してた年下の女の子も来る予定なんだけど、野郎ばっかりで一人十代の女の子連れてるのも、周りの目が気になってさ。女の子もいてくれた助かるなあって。もちろん、単純に遊びたいっていうのもあるけど」
「ああ、前に言ってた昔馴染みの近所の子? 本当に仲が良いんだね。うん、いいよ行こうかな。ちょうど誰かと遊びたい気持ちだったの」
「よかった! じゃあ、連絡入れとく」
「カラオケなんて久しぶりだから楽しみ。メンバーは私含めて四人?」
「いや、あとは尾形も来るよ。ほらあいつ、彼女と別れたばかりで最近機嫌悪いだろ? アシリパさん……あ、その女の子ね、あの子と尾形も面識あって、皆で元気付けようって話になってさ」
思いもよらない名前が出てきて、思わず顔が引き攣る。やっぱりやめておこうかな、と言おうとする前に既に杉元くんは白石くんに電話を掛け私も連れて行くと話してしまっていた。ほんの一分前まで久しぶりのカラオケに心躍らせたというのに、その落差に心が追いついていかなかった。
なんとか帰る為の言い訳を考えたが何も浮かばぬまま杉元くんに連れられてカラオケボックスに着く。どうやら白石くんのバイト先らしいそのお店に、他の皆は既に到着して部屋に入っているとの事だった。今すぐ引き返したい気持ちのまま、おずおずと杉元くんに着いていく。ここだよと案内された部屋の扉を杉元くんが開けると、逆L字に設置されたベンチの奥から、尾形くん・白石くん・それから初めてみる女の子の姿があった。
「お待たせ!」
「おう、杉元。思ったより早かったな」
「まったく、待ちくたびれたぞ。ん? その女の人は誰だ?」
「あ、初めまして。えっと……」
「あ、この子がさっき話してたアシリパさん。ね? こんな子を俺らが連れ回してたらちょっとした犯罪臭さがあるだろ? で、アシリパさんこっちが……」
「おい。なんでこいつがいるんだ」
それまで一言も発さなかった尾形くんが、私の姿を見て口を開く。どこか怒りを含めた重低音のよくきくその声色に思わずびくりと肩を揺らす。
「ああ、ちょうど学校出る時に会ってさ。人数が多い方がいいかと思って」
「だからって、なんでよりによってそいつなんだ」
「えぇ? 同じグループワークをした仲だろう? お前、彼女に振られたからってそう気を立てるなよ」
「はっ、悪趣味な奴らだな。それともなんだ? 俺を慰める会とか言って、傷を抉る為にこの会は開かれたのか」
「ちょっとちょっと尾形ちゃんどうしたの~?」
一人静かに怒りを露わにする尾形くんに、皆戸惑いを隠せなかった。
「お前もお前だ、なんでわざわざ来た」
「ご、ごめんなさい……その……」
「おい、彼女にまで当たる事ないだろ!?」
「だから! どこに失恋した奴を慰める会にその振った張本人を連れてくる奴がいるんだよ!」
「……え?」
普段の尾形くんからは想像出来ないその荒げた声に、皆は驚いて尾形くんを見る。いや違う、これは声になんかじゃなくて、その言葉の内容に驚いている。だけど、一番驚いているのは、多分私だ。
「「「えぇ!?」」」
「ま、待って待って。えっと、え? 尾形の彼女、って、え?」
杉元くんがおろおろしながら、尾形くんと私を交互に指差す。そうだったの、という顔をされても、私の方がそうだったのという気持ちだ。
「ふ、二人ってそうだったの?」
「お前ら本当に気付いてなかったのか」
「待って、えっと尾形くん、あの……私達って、付き合ってたの……?」
「……はぁ?」
私が口を開くと、皆どういう事だと言わんばかりに口をポカンと開ける。頭が混乱して全く働かない。尾形くんが何か言おうとしたが、その前にアシリパさんと呼ばれた少女が立ち上がりながら声を出した。
「よし。杉元、白石、私達は一旦退室するぞ」
「えっでも……」
「よくわからんが二人の間には誤解があるらしい、一度二人でしっかり話した方がいいんじゃないか? おい白石、他に部屋は空いてないのか」
「あ、ああうん、多分ある。確認してくる!」
アシリパちゃんに指示されて白石くんはすぐに部屋を出て行く。アシリパちゃんも自身の荷物を手に持ち、私の方に向き直して口を開いた。
「尾形は、わかりづらい男だ。だからちゃんと、何か思うところがあればしっかり話しておかないと、上手くいかないと思うぞ。頑張れよ」
本当に十代の少女なのだろうか?と思う程凛々しく彼女はそう言って、杉元くんの手を引き部屋を出て行った。パタンと扉が閉まる。私はどうしたらいいかわからず、扉の前で立ち尽くしたままだった。テレビのモニターからは今週のピックアップミュージックビデオ!と明るい声で最近よく耳にするアイドルソングが紹介されていた。私達のこの空気とは場違いな程明るくハッピーな曲をアイドル達が歌って踊っていた。
「……えっと」
「……」
「私って、尾形くんの彼女だったの?」
「違うのか」
「……」
「それともお前は付き合ってもいない男をあんなに家に上げて泊まらせてるのか。スキンシップも」
「……それ、は」
「俺は付き合ってるもんだと思ってた」
「でも、だって私達、付き合おうって言ってない、好きとかそういう言葉さえなかったし」
「でも、お前は俺の事が好きだっただろう」
「な、んで……」
「初めてお前の家に行った時、言葉にははっきり言わなかったがあんなに熱い視線を送ってきたら、そう思う」
「えぇ……」
「俺も、お前の事は気になっていたから嬉しくてあの日キスをした。お前は拒否しなかったし、あの日以降もお前は拒否するどころかわかりやすいくらい好きだという目で俺を見て何をしても受け入れるから、気持ちは同じなんだと、もう付き合っているものなんだと思っていた」
「何、それ……で、でもその……体の関係はなかったし、私の事女として見てないのかと……」
「はぁ? ……あのなぁ、そんな奴に何度もキスするかよ」
「だったらなんで」
「お前が一度だって俺に触れて来ないからだろ」
「え?」
「キスしたり手を繋いだり、いつも俺からでお前からは一切触れて来ねえ。体に触れようとすると、びくりと体を震わせて話題を変えようとする。あぁまだお前の中でそういう段階じゃないんだなと思って、待ってたんだ」
目を逸らし、整えた髪を撫で付けながら尾形くんは言う。確かに、尾形くんの髪に触れることはあっても自分から手を繋いだりキスをした事は一度もなかった。彼からのアクションがあれば受け入れたが、私から何かをして拒絶されるのが怖かったからだ。キスのその先に進みそうな時も、これ以上はダメだと頭の中でストップをかけていたと思う。最初こそ一度でも抱かれればと思っていたれど、このまま体の関係まで持ってしまったら本当に戻れなくなってしまうとどこか思ってしまっていたのだ。
「……でも、じゃあ、この間一緒に歩いてた女の人は?」
「この間?」
「先週の土曜日、百之助くんって尾形くんを呼んでいた、少し年上の女の人!」
眉間に皺を寄せて尾形くんは何かを思い出すような表情をした。そうして、はっとした顔をした後溜息を吐いた。
「お前、まさかあれを彼女かなんかと勘違いしたのか」
「ち、違うの?」
「阿呆。あれは、母親だ」
「お、お母さん!? 嘘、流石にそんな年齢の人には見えなかった!」
「まあ、母親と言っても産みの母親じゃないからな。それにあの場には弟もいたはずだ」
「弟? 産みの親じゃない?」
まあその弟も半分しか血が繋がってないけどな、と尾形くんは言う。あまりの情報量に脳みそがキャパオーバーだった。そろそろ頭から湯気が出るんじゃないかと思う。
「……つまり、だ。お前は、俺と付き合ってるとは思ってなかった。その上女……まあ母親だが、そいつと会ってるのを見て彼女がいると勘違いして、この間のあの発言だった、って事か」
「……うん」
はぁーと大きな溜息を吐きながら、尾形くんは両手で顔を覆った。怒っているのか、呆れているのか、彼の表情は上手く読み取れない。そっと歩いて、彼の座る場所まで近付く。
「おがたくん」
「……なんだ」
「私、尾形くんの事好きでいていいの?」
「……当たり前だろうが」
顔を覆っていた手を外し、尾形くんの瞳が私を捕らえる。その大きくて真っ黒な目を見た途端に、また涙が頬を伝って顎の先で溜まっていった。
「あのね」
「あぁ」
「私、尾形くんが好き。大好き」
「……知ってる」
涙を拭う事も忘れて、座ったまま私を見上げる尾形くんの頬に触れた。両手で包むように彼の輪郭をなぞる。
「私を、尾形くんの彼女に、してください」
「だから、俺の中ではお前はずっと彼女のつもりだったんだが」
わからん奴だな、と言いながら尾形くんも笑った。その笑顔がいつもより少し泣きそうに見えたのは、もしかしたら気のせいではないのかもしれない。頬に触れる私の手を、尾形くんの大きな手が重ねて包み込む。
「やっとお前から触れてくれたな」
そう呟く尾形くんに、前屈みをしてキスをした。涙に濡れたそのキスはしょっぱくて、だけど今までで一番甘かった。涙を拭うために唇を離そうとすると、尾形くんはそれを許さないとでも言うように私の後頭部を掴み何度も唇を押し当てた。今までの触れるだけのキスとは違って、どんどん角度を変えて深くなっていく。ちょっと、と声を出そうと口を開けば舌が侵入して口内をじっくりと犯された。あまりの事に逃げる事も出来ないまま、ふらふらと腰が砕ける。そんな私の腰を抱いて尾形くんは彼の膝の上に座らせる様に支える。
「ちょ、ちょっと尾形くん……!」
「好きだ」
「!」
鼻先をくっ付けたまま、余裕のない表情で尾形くんは囁いた。嬉しくて嬉しくてまた涙が出そうになる。だけど、彼の掌が私の太腿を撫でるのに気が付いて慌てて彼の胸を押して距離を取る。
「ちょ、ちょっと待って、ここ、カラオケだよ!?」
「大丈夫だろ」
「だ、駄目だって! 皆も戻って来るかもしれないし……って、きゃあ!」
扉の方を見てみると、ガラス越しに気まずそうに立つ白石くんと目が合った。杉元くんは顔を真っ赤にさせながら、アシリパちゃんの目元に手を当て隠している。チッと隣から舌打ちが聞こえた。
「い、いやぁ~邪魔しちゃってごめんねぇ~?」
「まったくだ」
「いや尾形、どう考えてもお前が悪いからな? こんな所で、あ、あんな事……」
「ごご、ごめんね杉元くんお見苦しいところを……!」
どうやら他に空室がなかったようで、三人はロビーで私達を待ってくれていたようだ。だけど、もし大喧嘩になったりしてたらどうしよう……と心配になって様子を見に来たらちょうどあの場面だった、という事らしい。あまりの恥ずかしさに皆の顔が見れずただただ俯いていた。するとアシリパちゃんが私の服を摘み、話し掛けてきた。
「ちゃんと話は出来たのか」
「うん、お陰様で。ありがとう」
「お互い言葉が足りんとよくないぞ。この先もしっかり、仲良くな!」
ニコッと屈託ない笑顔をする彼女は、本当に年下なのかと疑問に思うほどしっかりしている。下手したらここにいる誰よりも大人に感じた。
「さぁて二人は仲直りしたようだし歌うぞ! 食うぞ! 白石料理頼め!」
そうメニューを開いて今にもヨダレを零しそうな彼女に、やっぱり年相応なんだなと笑みがこぼれる。そんな私の手を引いて、尾形くんは皆に手を振った。
「じゃあ、俺らは帰る」
「はぁ!? お前の為の会だろうが!」
「慰められる必要も励まされる必要もなくなったんでな」
「ちょ、ちょっと尾形くん……!」
「それに今からなら、まだ今日の映画に間に合うしな」
そう言って尾形くんは時計をちらりと見る。そんなに今夜の映画を楽しみにしていたのだろうか。
「まあまあ、仲直り出来たみたいだし野暮な事は言わねぇよ。おふたり共仲良くね~」
白石くんがにこやかに手を振る。二人分のお金を渡してごめんね、と平謝りしながら店を出た。夜風が心地いい。
「尾形くんって、結構映画好きなんだね。今更だけど」
「あぁ? 別にそういう訳じゃない」
「えっでも映画に間に合うようにって」
「阿呆か。あんなの口実だ。まあ、お前と映画を観る時間は嫌いじゃないけどな」
そう言って彼はギュッと私の手を握る力を強くする。
「だけど今夜は、映画なんか観させる気はないぞ」
「……へっ」
意味深に彼はニヤリと笑い、そのまま私の家へと向かった。
――輪郭のぼやけた曖昧な関係が始まって三ヶ月と少し。遠回りもしたけれど、私達の関係にはようやく名前が付いて、はっきりとその輪郭に触れた気がした。