第五話 わからないよ、何も
朝、目覚めた私を襲ったのは酷い頭痛だった。
昨日びしょ濡れになって帰宅してから、一応シャワーは浴びたものの雨で冷え切った体は温まらなかった。何をするのも億劫で髪を乾かすのもそこそこにベッドに倒れ込み、また流れてくる涙をタオルで拭い続けていた。今日はバイトが休みでよかったと思いながらそのまま泣き疲れて私は眠ってしまったようだった。
スマホを手に取り時間を確認する。朝の五時過ぎ、カーテンの外側はまだ朝を迎えるか悩んでいるようなそんな頃合いだった。起きるにはまだ早い。そもそも頭が痛くて起き上がるのも辛い。何も考えたくない一心で私はもう一度目を閉じ、夢の中へと向かった。
次に目が覚めた時には九時半を過ぎていた。しまった、講義には間に合わないと慌てて体を起こすが、やはり頭が締め付けられるように痛かった。昨日の雨のせいなのか、それとも泣き過ぎたなのか。もしかしたらどちらもかもしれない。頭痛だけで、熱も喉の痛みもないから風邪ではないだろう。どの道この状態では講義を受けても内容がまた頭に入らないに違いない。今日の内容が試験に大きく関わるものではない事を願いながら、大学を休む事にした。
適当に家にあったものを胃に入れてから薬を飲み、再びベッドに横になった。流石にもう眠れそうにはない。スマホを手に取ると、何件か通知が入っていた。定期的に届くダイレクトメールと杉元君からのメッセージ、それから尾形君からも着信とメッセージが一件入っていた。その名前を見て、また胸が痛くなる。
杉元君からのメッセージは、『昨日今日と講義に出てないけど大丈夫?』という内容のものだった。心配そうな顔をしたキャラクターのスタンプも。昨日今日と杉元君とは講義が被っていたから、姿が見えず気に掛けてくれたのだろう。『少し体調が悪いけど大した事ないから大丈夫』とスタンプを付けて返事を送る。一度深呼吸をしてから、尾形君からのメッセージを開く。
『どうかしたのか』
たった一言。スタンプも絵文字も何もない彼のメッセージはいつも通りで素っ気ない。今日の講義は尾形君も一緒に受けている。そこで私がいない事に気付いたのか、もしくは杉元君に何か聞いたのかもしれない。杉元君と同じ内容を返そうかどうしようかと悩んでいると、スマホの画面が切り替わる。尾形君から電話がかかってきたのだ。反射的に電話を取る。
『おい』
「お……おはよう」
『杉元には返事をして俺には何もなしとは、随分じゃねぇか』
「あー……ごめん。今一緒にいるの?」
『ついさっきまでな。で? 大丈夫なのか』
「あぁ、うん……ちょっと頭が痛くて」
『そうか……試写会、やめとくか』
「……うん、そうだね。そうする。ごめんね」
『気にするな。後で行くから、ゆっくり休んでろ』
「え? いや、来なくていいよ! ……来ないでよ」
私が来なくていいと言うより先に電話は切られる。ツーツーと無機質な機械音を耳に感じながら、もう尾形君には届かないのに来ないでよと呟いた。
ぼんやりとした頭のまま、テレビを付け眺める。朝のニュースからワイドショーへと番組は切り替わっていて、主婦層向けと思われる情報が明るく切り取られて伝えられていく。今人気のスイーツ、最近噂のプチプラ商品、ネットで話題のバズレシピ……普段ならば私も興味を持ったかもしれない内容も、今ではただ静けさを消すための音でしかなかった。途中のCMで、今夜試写会に行く予定だった映画シリーズの予告が流れた。それだけで苦い気持ちになってしまい、急いでチャンネルを変えた。
お昼を過ぎて少しお腹が空き始めた頃、ピンポーンと間の抜けたインターホンの音がした。宅配便が届く予定はない。ドキッとしてドアの覗き穴から見ると、尾形君が立っていた。どうして。尾形君は午後も講義があったはずだ。顔を合わせたくなくて寝ていて気付かなかった事にしようと踵を返すと、ポケットに入れていたスマホが着信音を告げた。どうしてマナーモードにしていなかったのだろうと後悔してももう遅かった。ドア越しに「おいそこに居るんなら早く開けろ」と少し苛立った尾形君の声がした。
鍵を開けると尾形君は遠慮する素振りもなく靴を脱いで部屋に上がり込む。手にはビニール袋を下げていて、何かを買って来てくれたようだった。
「尾形君、午後も講義あったんじゃないの」
「サボった。それより熱は」
「ん、熱とかはない。ただ頭が痛かっただけ」
「風邪か」
「どうかな。他は何ともないよ。昨日、雨の中帰っちゃったからかな」
「雨? 夕方には止んでただろうが。午後の講義受けてないのか」
「え、あー……うん、ちょっと」
「昨日から体調悪かったのか?」
「そういう、わけじゃない、けど」
あれこれと突っ込んで質問をされる。その質問達に、顔を見れないまま言葉を濁して答える。
「なんかあったのか」
「ううん、別に」
「……まあいい。食欲あるんなら、これでも食え」
グイッと渡されたそれは駅のすぐ近くにあるサンドイッチ屋さんのものだった。平日のお昼にしか空いてなくてなかなか買いに行けないと、私が以前言っていたところのもの。
「ん……ありがとう」
「……やっぱりなんか変だな、本当に熱ないのか」
訝しげな顔で尾形君が私の額に触れようと手を伸ばす。その指先が私に触れる前に、大きく体を逸らした。そんな私を見て尾形君はキュッと瞳孔を細くし、立ち尽くす。
「……なんだよ」
「……ないで……」
「あ?」
「……さわら、ないで……」
「……あ?」
重低音でそう言う尾形君に思わず体が震える。
「ごめん、もう、嫌なの」
「嫌? 何が」
「そんな風に、触れないで欲しい」
「……は?」
「もう、もう嫌なのこの関係が。苦しいの。疲れたの。終わりにしたいの」
「何、を言ってるんだよ。何で急に」
「どうしてかなんて尾形君が一番わかってるでしょ!?」
はらはらと涙が頬を伝ってそのまま床を湿らせていく。私が突然何を言い出したか理解が追い付かないらしい尾形君は、何一つ納得出来ないという風に私を見る。
「折角心配して来てくれたのにごめんね、でもお願いだから帰って」
「おい……」
「いいから! 帰ってよ!」
思わず大きな声が出る。こんなにもヒステリックな声が出るなんて私自身驚いた。しばらく瞳孔を細めたまま立ち尽くした尾形君がチッと舌打ちをした後、頭を撫で付けながらわかったと出て行った。いつもは玄関まで見送るのに、部屋の中でへなへなと座り込みながら、重い扉が閉まる音を聞いていた。
翌朝も、それはそれは気の重い朝だった。私の気持ちとは正反対に晴れ渡った空を見上げて、重い足取りで大学へと向かった。今日は出席日数に煩い教授の講義もあるし、流石に何日も休む訳に行かない。どうか尾形君に会いませんように、と人とすれ違う度に願った。幸いにも、その日は尾形君や杉元君達とも遭遇せず、別の友人達と講義を受けたりご飯を食べたりしながら一日が過ぎて行った。
講義も全て終わり、バイト先に向かう為に大学を出る。門をくぐってすぐ、見慣れた後ろ姿を発見した。側面を刈り上げ上部を綺麗に整えたツーブロックの髪、最近お気に入りらしい黒いジャケット、気怠げに立つその姿。尾形君だ。本当はこの場を去ってしまいたかったがバイトの時間が迫っているので、仕方なく気付かれないように少し距離を取りながら歩く。どこかいつもよりも不機嫌そうな空気を、離れていても感じる。昨日の事が関係しているだろうかと一瞬気になったが、答えをもう知る由もないのだから考える事をやめようと思考を止める。早く、忘れてしまわなければ。
バイト先に着くや否や、店長から声を掛けられた。明日と明後日のシフトを変更出来ないかというものだった。元々明日が休みで明後日が出勤になっていたが、特に予定もなかったので了承した。むしろ、金曜日に出勤して尾形君が迎えに来ない事に気付いた先輩に何か言われるかも、と少し気にしていたので丁度よかった。
木曜日。講義の為に教室へ入るとすぐに杉元君に話し掛けられた。
「おはよう! 体調はもう大丈夫?」
「うん、心配かけてごめんね。ありがとう」
「ううん。休んでた時のノート、よかったら貸すよ」
「ありがとう! すごく助かる」
「おい、邪魔だ」
二人で話していると、私達の間を遮るように低い声が聞こえた。聞き慣れたその声にドキッとする。
「あ? なんだ尾形いきなり」
「出入り口で突っ立って話してたら邪魔だろうが」
「あはは、そうだよねごめん」
顔も上げずにそそくさと場所を開ける。一瞬視線を感じたが、無言のまま尾形君は空いている席の方へ歩いて行った。
「確かに俺達が悪かったけど、言い方があるよな」
「あは……でも、うん、やっぱり邪魔だったし私達」
「ここだけの話、あいつさぁ彼女と別れたらしくて。それで何か機嫌悪いらしいんだよね」
「えっ」
「あ、俺が言ったって内緒ね」
しーっと人差し指を口に当てて杉元君は言う。尾形君が、彼女と別れた? 彼女がいる事も最近知ったばかりだというのに今度は別れたのだという。あまりの情報速度に頭の中はグチャグチャだった。他に何か杉元君が知らないか話し掛けようとすると教授が教室に入ってきたので、慌てて席に着く。結局その日も講義は上の空になってしまった。
気がつくと講義は終わっていて、皆教室を出ようとしていた。教室内を見回すと、尾形君はまだ教科書やノートを纏めているところだったので、慌てて荷物を手に持ち尾形君の元へ行った。
「あ、の……」
「……なんだ」
「あ、えっと、この間はサンドイッチありがとう。……って言ってなかったなって」
「それはそれは、律儀にお礼をありがとう」
言葉の一つ一つが刺々しくて心が折れそうになる。それでも、尾形君に聞きたい事がたくさんあった。彼女とは本当に別れたのか、もしかして――自分でも都合がいい期待だとはわかっているが――私との関係を続けたくて、彼女と別れてくれたのか。だけど、それを言葉にしようとすると何と言えばいいかわからず、もどかしかった。
「まだ何か用か」
「えっ……と」
目も合わさず尾形君は私の言葉を待つ。明らかに苛立っているのに、それでも私の言葉を待ってくれていた。小さく深呼吸をして、口を開く。
「さっき、杉元君から、彼女と別れた……って聞いて」
ぴくりと尾形君の眉毛が動いた。
「ほう? それで?」
「え、いや、えっと……」
「わざわざ、本当に別れられたか確認しにきたのか?」
「……」
「ああ、安心しろ。ちゃーんと別れたと思っている。これで満足か」
そう言い放って尾形君は乱暴に荷物を持って去って行った。教室の中は、もう私一人しか残っていなかった。先程微かに抱いていた、私の為にという期待はあっけなく打ち砕かれた。あんなに冷たい目を、声をした尾形君を見たのは初めてだった。そうなった理由はわからないが、きっと尾形君は彼女と納得して別れたのではないんだろう。それなのに私が呑気に話しかけてしまったから腹を立てたのかもしれない。鞄を持つ手が震える。一つ下の学年の子達が教室に入ってくる声が聞こえて、我に帰り慌てて教室を出る。次の講義に行かなくては、えっと、でも次の教室はどこだっけ? 数日間、ずっと混乱しっぱなしの私の脳はそろそろ限界を迎えそうだった。