その日は満月の夜だった。天体に詳しくはないけれど、なんちゃらムーンとなんとかが重なる珍しい日だとかで、柄にもなく私はベランダの外に出て天体観測をしていた。別に望遠鏡なんて持っていないから担ぐ事もなく、時刻は午前二時どころか日付を跨ぐ前だったけれど。
もう外は寒いからと、ホットミルクをお気に入りのマグカップに入れて。うん、たまにはこういう日も悪くない。ベランダの柵に肘を置きながら私は少しずつホットミルクを口に運んだ。
ぼんやりと空を眺めマグカップの中身も少し冷えてきたところで、そろそろ部屋に戻ろうかと振り返る。すると、タイミングよくベランダの扉がカラカラと開く音がした。隣の尾形さん家からだ。
お隣に住んでいる尾形さんは、なんというか、一言で言うと少し怖そうな印象の男の人だ。とても格好いい人だとは思うのだけど、いつもむすっとした無愛想な感じで、何より顎にある縫合跡がなんとも怖い。普段ピチッとした格好をしているのに、それすらなんだか堅気に見えないような雰囲気がある。実際のところは挨拶くらいしかした事がないので、どんな人かなんてわからないのだけど。
カチッとライターの音がして、煙草に火をつけたのだろうと察する。ベランダに設置された薄い隔たりの向こうで、彼の吐いた息が白いまま空に消えていく。それは寒さによるものなのか、それとも煙草の煙なのか。おそらく後者だろう。夜だから洗濯物は干してないので匂い移りは気にならないけれど、それでもちょっと遠慮はして欲しい。
やっぱりちょっと怖いし、なるべく関わりたくない人だな。それが彼に抱く私の印象だった。そう、今までは。
「そんだがらばあぢゃん俺は元気にしてるって。え? ああ、ちゃんと食べでっから心配すんな。野菜?
どうやらベランダに一服しにきた彼は、電話の最中だったようで。相手は恐らくおばあ様なのだろう。出身がどちらかは知らないが、少なくともこの辺ではない少し訛った喋り方。聞くつもりはなくても薄い隔たり一枚しかないこの空間では、嫌でも耳に入って仕方がなかった。
あんなに怖そうな人なのに、こんな喋り方でおばあ様とお話しするんだなぁ、それもとても優しい声色で。そんな風に思いながら、マグカップに残った最後の一口を飲み干そうとすると、気管に入ってしまって思いがけず咽せてしまった。
「っ、ゲホッゴホゴホッ」
「!」
ああしまった。私がここにいる事がバレてしまった。観念した私はそっとベランダの柵から少しだけ身を乗り出し、「すみませんお騒がせしました」と声を掛けた。
「……今の、聞いてたか」
「へ、あー、えへへ」
「……」
無言のまま尾形さんは、私と同じようにベランダの柵から少しだけ顔を覗かせた。顎髭を指でなぞりながら、なんとなく照れたような罰が悪そうな顔。先ほどの話し方からのこの表情に、尾形さんのイメージがガラリと変わっていた。
「……あんた、料理はするか」
「えっ? まあ、一応自炊はしてますけど」
「どうも今度親戚から大量の野菜が届くらしい。良かったら少し貰ってくれないか」
「え、それは、とても助かりますけど。いいんですか?」
「ああ」
そう言いながらニヤリと彼は笑って言った。「その代わり、今聞いたことは忘れてくれ」
それはお約束出来ませんけど、なんて思いながら私は後日ありがたく野菜のお裾分けをいただく事にした。あの日から私の抱くイメージが変わってしまった尾形さんと、これをきっかけにお近づきになれないかしらなんて思いながら。