シュトレン

 ガチャリと鍵の開く音が聞こえるなり、私の膝の上で寝転んでいた娘が飛び起きて駆けていった。
「パパ! おかーえりっ」
「ただいま。お、今から寝るところだったのか?」
「あのね、今、はみがきしてもらうところだったの!」
「おお、そうかそうか。ちゃんと歯磨き出来てえらいな」
 基さんは娘の頭を撫でようとして、まだ自分が手も洗っていないことに気付いてそっと引っ込めた。最近は彼の会社でも娘の保育園でもインフルエンザが流行っているので、手洗いうがいに気をつけようと今朝も話していたばかりなのである。
「おかえりなさい。今からこの子の寝かしつけするけど、先にご飯温めようか? それともお風呂にする?」
「腹は減ってるが、先に風呂にしようかな」
 玄関に上がり上着を脱ぐため基さんが荷物を置くと、いつもの通勤バッグとは違う見慣れない紙袋が目に入った。私が尋ねるよりも先に目敏い娘がそれをサッと奪う。
「ねぇパパーこれなぁにー?」
「あ、こら」
 止めようとする基さんの手もすり抜けて彼女は紙袋の中身を取り出した。赤と緑のストライプリボンで包まれた無地の箱が大小二つ。
「もう、勝手に開けちゃダメでしょ。パパのなんだから」
「でも、こっちに私のおなまえ書いてるよ!」
 そう言われて差し出された小さな箱には、確かに“ムスメちゃんへ”というメッセージカードがついている。最近自分の名前は読めるようになった娘は「ほらね?」と言わんばかりの顔をした後包みを開けた。
「わーい! 小さなケーキだ!」
 中にはビニールで小分けにされたパウンドケーキが三つ入っていた。もしかしてと思い、大きな箱の方を手に取ってリボンを解いて箱を開けると見覚えのある字で書かれたメッセージカードと綺麗に包まれたシュトレンが入っていた。
「鶴見部長からいただいたんだ」
 洗面所から戻ってきた基さんの言葉に、やっぱりと私は笑った。
「今年も見事なシュトレン、美味しそう」
「そっちは洋酒を使ってるから、もしあの子が見た時用にってパウンドケーキまで作ってくれたらしい」
「えぇ、そうなの?」
「わざわざ悪いですと断ったんだが、この間部長がインフルエンザで休んでた分俺にも皺寄せが来ただろうしその罪滅ぼし代わりにだとさ」
「そういう訳にもいかないわよね。今度何かお返ししなくっちゃ」
 ナッツとフルーツがたっぷり練り込まれ、雪が積もるように粉砂糖がまぶされたそのお菓子をもう一度箱へとしまい冷蔵庫へと入れた。基さんもご飯を食べた後のお楽しみに取っておこう。
 パジャマの裾をついっと引っ張られて振り返ると、パウンドケーキを一つ手に取った娘が「これ、いまたべたい……」ともじもじしながら告げた。時刻は九時を回る頃。歯磨きも済ませ、あとは寝るだけの時間帯だ。
「明日のおやつの時間に食べよ?」
「いーやーぁ! もう一回はみがきちゃんとするから、いまたべたーい!」
「もう……」
 どうしたもんかと思っていると、基さんが申し訳なさそうに頭をかいた。まあ確かに、見つけてしまったら食べたがるに決まってる。次からは気をつけようと基さんに小声で伝えて、私は娘と目線を合わせるためしゃがみこんだ。
「そうだなぁ。今から食べるなら時間が遅いから、この一個をパパとママの三人で分けて食べよう。その代わり食べられる量は小さくなっちゃうよ? 明日だったら、一個全部食べてもいいよ。どうする、どっちがいい?」
 私に似て食いしん坊の娘は一瞬黙って考え込んだ後、「みんないっしょで、いまたべる……」と呟いた。
 それでもいいかな? と同意を求めるように基さんを見ると、苦笑いをしながら小さく頷いていた。

 ナイフでケーキを三等分にしながら、不意に昔のことを思い出して笑いをこぼした。
「ママ、どうしたの? もしかして先に食べちゃった?」
「違うよ。はい、ムスメちゃんの分」
 そう言って小皿に乗せてあげると娘は小躍りしながらそれを頬張った。私もパクリと頬張ると、口の中いっぱいに優しい甘さが広がる。基さんをチラリと見ると、娘がもっと欲しがらないかと気にして口をつけていないようだった。欲しがってもあげちゃダメだよと肘で突けば、慌てて口に運んでいた。
「うん。美味いな」
「みんなでたべたらおいしいね!」
「そうだね。残りはまた今度。ね?」
「はーい! ママ、もう一回はみがきおねがいしまーす!」
「お、自分で言えて偉いぞ」
 先ほど片付けたばかりの歯ブラシをもう一度手に取って、娘を膝の上へと誘う。満足そうな顔をした娘は私を見上げながら大きな口を開いた。
 歯磨きを終えた娘が寝る前に読んでもらう絵本を本棚から選びに行き、キッチンへ戻ると基さんがナイフと小皿を洗ってくれていた。
「あとで一緒に洗うから置いててよかったのに。ありがとう」
「ん? うん。さっき、何笑ってたんだ?」
「ふふ、昔基さんが初めてシュトレンもらって帰ってきた時のこと思い出してた」
 まだ結婚する前のこと。今日と同じように鶴見部長の奥様から良かったらと持たせてくれたシュトレンを、基さんが切ってくれるというから任せたら、思ったよりも大きいサイズで切って出されたことがあったのだ。
「シュトレンってのは、毎日少しずつ切って食べるものなんだよ、ってナマエが教えてくれたんだったな」
「あんなに大きく切られたシュトレン初めてだったよ」
「ロールケーキみたいなもんで、早めに食べ切らないといけないと思ったんだ」
「だからって」
 何年経っても笑ってしまうこのエピソードは、きっと毎年思い出してしまうのだろう。
「お風呂上がってご飯食べたら、小さめカットのシュトレン食べようね」
「そうしよう」
 絵本が決まったらしい娘が戻ってきたので寝室へと向かう。はてさて、今年のシュトレンは何日持つだろうかと考えながら、私はベッドに潜り込み絵本を開いた。

そういえば昨年これを書くにあたり初めてシュトレンを食べました。レーズンがあまり好きではなく苦手意識があったのですが、食べてみたらとても美味しかったです。