キャンドル

 ただいまと声を掛けたけれど、おかえりの声が聞こえなかった。それどころか、電気もついていないように思う。
 今日も残業になってしまった。いつもだったらナマエがいるはずの時間だと言うのに、まだ帰っていないのだろうかと不思議に思いながらリビングへと向かうと、彼女は暗い部屋の中でキャンドルを眺めていた。付き合いだした年に、彼女がクリスマスマーケットで一目惚れしたステンドグラス風のキャンドルホルダーの中で、優しい光がゆらゆらと揺れている。
 普段は明るく朗らかなナマエだが、時々何かに悩むとこうやってじっとキャンドルに火を灯し考え込む事があった。今日も仕事で何かあったのかもしれない。
 そっとしておくべきかと迷ったけれど、「ナマエ。大丈夫か」と声を掛ける。ハッとしたように彼女はこちらを振り向いて、「基さん。おかえりなさい。ごめんね、考え事してた」と言った。
「お仕事お疲れ様。すぐご飯温めるね。お風呂先に入る?」
 取り繕うようにそう言う彼女に、「それより、大丈夫なのか。物音にも気付かないくらいだなんて。何かあれば、話を聞くぞ」と伝える。
 キッチンへと立ったナマエは一度振り返って何か話そうと口を開いて、言葉を探した後で「大丈夫」と力なく笑った。

 だけど翌日も、その翌日も、彼女の様子はおかしかった。俺が帰るまでの間、キャンドルを灯して何かを考え込んでいるようだった。
「なあ。本当に大丈夫なのか。俺じゃ頼りないかもしれんが、何かあったなら話してくれ」
「……ありがとう。あのね、基さんに話したい事があるの。だけど、なんていうか……もしかしたら思い違いかもしれないから、少しだけ待って。今週の日曜日、ゆっくり時間取れる?」
「大丈夫だ、接待ゴルフの予定もない。ちゃんと時間を作る。約束する」
「ん。ありがとう」
 彼女はまたそっと笑った。何かを思い悩んでいて、食欲もないのだろう。あんなに食べることが好きな彼女が、ほんの少ししか食事を取らずにベッドへと潜っていくのを見て、心配でたまらなかった。

 日曜日。朝ごはんを二人で食べたが、彼女はやはりあまり食べられないようだった。食後にコーヒーでも淹れようかと言うが、それもやめておくと言われてしまった。
「……あのね、基さん。実はね」
「ああ」
 神妙な顔をする彼女にどきりとする。
「昨日ね、病院へ行ってきたの」
「病院? なんだ、体のどこか悪いのか? 食欲もないし辛そうだと思っていたんだ」
「ううん、病気じゃなくて……その、これ」
 言葉を選びながら、彼女は一枚の紙を取り出して俺の前へと差し出した。
 薄くて小さく、真ん中が黒い穴のようになっている白黒のその紙が何を意味するか、俺は一瞬わからなかった。
「妊娠、したみたいなの。今七週目だって」
「……赤ちゃんがいるのか? 今、ナマエのお腹に……?」
「うん。まだ全然、これを見ても赤ちゃんって感じがしないだろうけど」
 この中に赤ちゃんが入っているんだって、と彼女はエコー写真の中心を指さした。ただ何か丸っこいものが見えるだけで、人の形ではないそれを見つめる。
「こんなに小さいのに、もう心臓の音が聞こえたの。どくどくどくどくって、こんなに早く動いているのかってくらい」
「そう、なのか」
 予想もしていなかった彼女の発言に、言葉が詰まる。だが、そう考えたらここ数日の彼女の行動に妙に納得がいった。あまり知識がないが、妊婦にカフェインが良くないことくらいはわかる。つわりがどの時期から始まるのかわからないが、食欲のなさはそれが原因なのかもしれない。
 目の前に置かれた写真をそっと手に取る。テレビドラマなどで何となく見かけたことはあるが、実物を目にすると何をどう見たら良いかもわからない。こういう時、なんと口にするのが正しいのかも。
「基さん」
 何も言葉を発せなかった俺に痺れを切らしたのか、ナマエは口を開いた。先日まで悩んでいた彼女とは違う、強い眼差しが俺へと真っ直ぐに向けられる。
「産んでもいいかな?」
「なっ……」
 思いもしなかった言葉に、俺がガタリと立ち上がった。勢いが強かったせいで、椅子が倒れそうになる。だけどそんなの構っていられない。
「いいかな、って……いいに決まってるだろう!」
 ナマエが座る椅子の前に屈み、微かに震えているその手を握った。彼女の瞳が揺れる。覚悟を決めた顔をした彼女が、安心したようにその瞳に涙を溜めていった。
「いいの? だって基さん……」
「……正直に言えば戸惑いもある。いい親になれる自信はなくて不安もある。だけどそれ以上に、ナマエとの子どもが出来たことが、自分でも驚くほどに嬉しい」
 両親に愛され大事に育てられた彼女と違って、俺は親の愛なんて知らない。それでも、彼女となら暖かい家庭を築けると思ったから結婚した。
 二人でずっと一緒にいられたら十分だと思っていた。だけど、この先家族が増えても、彼女がいれば大丈夫だという気持ちも、いつからか芽生えていた。
「いい親になれるかなんて、私だって自信がないよ。それでも、私は基さんとの子どもが欲しいとずっと思ってた」
「……うん」
「これから二人で、親になっていきたい」
 彼女はそっと俺の頬に触れ、そしてゆっくりと腕を首へと回した。前かがみになるようなその体勢に「おい、そんな体勢、お腹に負担がかかるんじゃないのか?」とナマエの体を起こせば、「ちゃんとこうやって気遣ってくれる。十分いいお父さんになってくれるよ」と彼女は目を細めて笑った。涙が一粒こぼれ落ちる。
「俺が、父親か……」
 まだ実感の湧かないその事実をぽつりと呟けば、じわじわと心が温かくなるのを感じる。
「よろしくね、パパ」
 パパなんて柄じゃないだろう。そう思って彼女の顔を見る。安心したように笑う彼女の瞳には、情けなく泣きそうになりながら、嬉しさを噛み締める男の顔が映っていた。