足元がふわふわとするのは、お酒のせいなのかそれとも幸福感からなのか。
今日、というよりも、つい先ほどのこと。私は恋人の月島さんにプロポーズをされた。元々結婚を前提に一緒に住んではいた。だけど、改めてきちんとしたプロポーズをされ、婚約者へと私たちの関係は変わった。先ほどの言葉を何度も反芻してはにやける顔を抑えるのに必死だった。
――好きだ。結婚して、これからも俺のそばにいてくれないか。
とてもシンプルで、だけど真っ直ぐなその言葉。叶うことなら録音しておきたかった。もちろんそうはいかないから、忘れないように何度も脳内でリピート再生させていく。
「ふふふ」
「なんだ」
「幸せだなって」
「それは俺のセリフだ」
彼も彼なりに、喜びを噛み締めているらしい。ほろ酔いなのか頬をほんのりと赤く染め、私の手を嬉しそうに握り締めている。
「ねえ月島さん、今夜はそっちの部屋に行ってもいい?」
「もちろんだ。ナマエが自分の部屋に行こうとしたらかついで連れて行くところだったぞ」
「なあにそれ」
くすくすと笑いが漏れる。一緒に住んではいるけれど、お互いの生活リズムの関係もあってそれぞれの部屋で寝ている私たちにとって、「一緒の部屋で寝よう」というのは“夜のお誘い”に等しい。ほとんどの場合は、私のものより大きいベッドで眠る彼の部屋に行くのがそのパターンだ。
普段はそんな事をあまりしないけれど、ピッタリと腕がくっつくように身を寄せた。本当は早く素肌に触れたい。寒いから仕方ないとはいえ、着ている衣類が邪魔に感じてしまうほどに。ここ最近はお互いに仕事が忙しくて、心身ともにそんな気分にはなれなくて数週間
「珍しいな、そんなに外でくっついてくるの」
「だって嬉しくて。それに今は、人がいないし」
ホテル上階のレストランでディナーを楽しんだ私たちは、下へ降りるためのエレベーターを待っている。今このエレベーターホールには私たちしかいない。とは言っても、少し先にはまだ食事を楽しんでいる人々やスタッフがいるのだ。いつ誰が来たっておかしくはない。
それでも私たちはお互いに酔っているのだ。お酒にも、幸福感にも。きっと街中には同じように幸せそうに寄り添い歩くカップルばかりだから、今日だけは許されたい。今夜は特別な夜なのだから。
「早くおうち帰ろうね」
「ああ。なんだ、どうした?」
「他の人の目を気にせず、もっと月島さんに触れたくなっちゃったから」
「なんだ、今日はえらく積極的だな」
「ふふ、そうかな? なんなら、もうどこかに泊まっていきたいくらいだよ」
月島さんは目を丸くして、頬をより赤く染めた。言った後で恥ずかしくなって私はマフラーに顔を埋めた。
「……こんな事なら、部屋も取っておくべきだったな」
「えっ」
「ホテルでのディナーだからと思って、ちょっと考えてたんだ。だが、俺はともかくナマエの方が急に泊まりなんて事になったら困るだろうと思ってな。ほら、化粧とか着替えとか」
「それは、まあ……でもそれなら先に言ってくれてたら準備してたよ」
「クリスマスに旅行でもないのにホテル取ってるなんて、それこそあからさますぎるだろう」
「確かに」
本当に色んな事を考えながら、今日のために準備してくれていたんだ。そう思うと、胸が熱くなった。今すぐにでも抱きついてしまいたいけれど、グッと堪える。
「うー、今すぐ抱きついてキスしたい」
「するか?」
「しないけど」
私が人前でそんな事を出来ないタイプだと知っているくせに、月島さんはそう言っていたずらっ子のように笑った。夜ベッドの中で見せる表情に似たそれに、顔に熱が集まっていく。
「月島さんって時々意地悪だよね」
「はは、悪かった」
「もう、早くキスしたいから早く帰ろう」
チンッと音が鳴って、ようやくエレベーターがやってきた。誰も乗っていない中へ乗り込む。周りの音が遮断された中に、優雅なBGMが小さな音で流れている。
「ところで、いつまでナマエは俺のことをそう呼ぶんだ?」
「えっ?」
「
元々取引先だった月島さんとは、仕事の繋がりもあるからなんとなく呼び方はそのままになっていた。私の性格上、うっかり呼び間違えるなんてこともやらかしそうだったから。彼はもちろん、家と職場で会った時とではきちんと呼び方も態度も切り替えられているけど。
「もうすぐナマエも、月島になるんだろう」
「そ……れは、そうだけど。でも、」
「会社でのあれこれが気になるなら、大丈夫だ。多分年明けから、営業の担当が変わるからほとんどそっちに行く事はなくなる」
「え、そうなの? それは寂しいかも」
「家では会えるだろう」
「まあそうなんだけど」
へへへ、と笑う私に月島さんは「で? いつまでそう呼ぶんだ?」ともう一度告げた。じっと見つめる眼差しに、顔が熱くなる。
「じゃあ……その、今夜からは、変えるね」
「なんて?」
「うーん、基さん、とか?」
あまり呼び慣れない彼の下の名前を口にする。名前を呼ぶそれだけの事なのに、長年呼び続けたものとは違うというだけでなぜだか気恥ずかしい。呼ばれた彼の反応を見ようと顔を上げると、彼は満足そうに笑って顔を近づけた。あ、と思うよりも先に唇が触れる。
「ちょ、ちょっと月島さん!」
「……」
「は、基さん」
「うん、なんだ?」
嬉しそうな顔をした彼に、それ以上何も言えなかった。チンッと再び音がして、エレベーターの扉が開く。下へ降りるまで、誰も乗り込んでくることがなくってよかったと私は安堵した。
「もう……」
「どうした? 顔が赤いぞ」
「本当、つき……基さんって、時々意地悪」
そう言うと彼はまた笑った。私が恥ずかしそうに名前を言うのが、そんなに嬉しいものなんだろうか。
「ちゃんと名前呼べて偉いな。そんないい子にはもう一度キスしたくなる」
「そんな意地悪言ってるともうずーっと月島さんって呼ぶよ」
「冗談だからこれからも名前で呼んでくれ」
名前を呼ぶだけでそんなに嬉しそうな顔をしてくれるなら、もっと早く呼び方を変えればよかった。そんな事を思いながら、私は心の中で何度も基さんと彼の名前を繰り返し唱えた。今夜、これから、ベッドの中で。彼の名前をたくさん呼ぶ練習のために、何度だって繰り返し唱えていた。