小さな世界平和
その人はいつも突然現れる、嵐みたいな男。
「今日カレーだろ? 俺にも分けてくれよ」
ピンポンとインターホンを鳴らしたかと思えばすぐに上がり込んで、台所の鍋蓋をぱかりと開ける。たっぷり作ってあるカレーを見てうんうんと満足気に頷く彼の姿に、心の中では二つの気持ちがせめぎ合う。二つ? いや、そんなわけない。迷惑でしかない。ほんの少しだけ心が跳ねているなんて、そんな事ない。
「分けてもらって当然みたいなの、どうかと思うんだけど」
「いいじゃん。いつもくれるだろ? ナマエちゃんの作るカレーうまくて好きなんだよ俺」
頭ひとつ分、下手したらそれよりもっと大きな体をわずかに前屈させ、私の顔を覗き込むように彼はそう言った。私よりも随分と長い髪がはらりと二人の間に落ちる。悔しいな、この笑顔を見たら大人しくご飯を分け与えることを、この人はよく知っているんだろう。
房太郎と知り合ったのはつい三ヶ月ほど前のこと。向かいのアパートにえらく体の大きくて長髪の男が住んでいることは以前から知っていたが、すれ違うこともほとんどないため挨拶さえ交わしたことがなかった。一度だけ、飲み会終わりに友人の白石に家まで送ってもらった時に彼と遭遇した。偶然にも白石と房太郎が友人で、友達の友達は友達だよなと不思議な縁が出来てしまった。
するりと人の心に入り込むのが上手い男だった。出会ったその日に白石と共に私の部屋に踏み入れて茶を飲むくらいには。
それから私たちは、今まで顔を合わせなかったのが不思議なくらいに家の近所で遭遇するようになり、挨拶を交わすようになり、当たり前のように房太郎が我が家へ訪ねてくるようになった。
白石が言うには彼はかなり遊び慣れているらしい。しょっちゅう違う子を連れているし、女の子同士の修羅場も目撃したことがあるだとかなんだとか。それを聞き身構えていたが、頬や頭、肩や腕などに触れられることはあれどそれ以上の何かに発展することはなかった。あくまでも、距離感が人よりも近いだけで無害、と言った感じだった。
白石は時折話を大袈裟に盛るから、今回もそうだったのかも知れない。そう思い始めたある日の夜、向かいのアパートで女の子二人が揉めているのを見かけた。なんだと思っていたら房太郎がやってきて、仲裁した後三人で彼の部屋へ入っていった。しばらく気にして様子を見ていたが出てくる様子もなし。警察沙汰にならなくて良かったと安心した翌朝、ゴミを出していると二人の女の子の肩を抱いた房太郎が出てきた。ああ、明らかに
そんな私の後悔をよそに、あんな現場を目撃されても房太郎は相変わらずだった。ふらりと気まぐれに私の家を訪ねてきてはお茶や夕飯をせびり、私を口説くでも押し倒すでもなく、ただ友人としてのんびりと過ごしては自分の家に帰っていった。あの日見た出来事は夢だったのかと思うほどに穏やかな時間で、それは今でも変わらずだった。
そうして今日も、私が作った何の変哲もないカレーを美味しそうにこの男は頬張っている。この後は手土産に持ってきてくれたコンビニのシュークリームで口直しして、また何もなくばいばいするだろう。まあね、あの時見かけた女の子たちと私とでは、タイプも全然違うものね。そりゃ手を出す気にもならないってか。一体全体どうにかなりたいのかそうでないのか、どっちつかずの感情が外に出ないようにカレーと一緒に流し込む。
「寒くなってきたら辛いカレーであったまりたいよな」
「君、少し前は暑い夏はカレーで汗流したいって言ってたけど」
「そうだったか?」
「それにうちのカレー、別にそんなに辛口じゃないでしょ。普通の中辛だし」
「これくらいが丁度いいんだよ」
別に私はそんなにカレーが好きってわけではない。たまたま、カレーのルーの期限が切れそうだったのとじゃがいもをたくさん頂いたタイミングが被ったから一人にしては多めにカレーを作って。二日目のカレーでも食べるかと帰宅していた途中で房太郎に遭遇して、「昨日もしかしてナマエちゃんの家カレーだった?」なんて言われたもんだから、まだ余ってるけどいる? なんて声を掛けてしまって。
「ナマエちゃん家のカレー、うまいな。また食べたい」その言葉を間に受けて、何度も何度もカレーを頻繁に作っては、彼がインターホンを鳴らすのを待ち侘びている。
あー、全く不毛だ。そう思うのに。
「よその女の子の方が、美味しいご飯いっぱい作ってくれるんじゃないの」
「さあ、他の女の子の家に行ったり手料理食べたりしないからな。ナマエちゃんの作る、こういう家庭的な普通のカレーが一番いい」
言葉の真偽はともかく、そうやって喜ぶ顔が見たくて、私はまた近いうちにカレーを煮込むんだろう。そんなに好きじゃなかったはずなのにな、そう思いながら、ゴロゴロと大きなジャガイモが入ったカレーをもう一口放り込んだ。
――穏やかな時間・喜ぶ顔が見たくて・あたたかい