ホワイトデーのお返しは

  先ほど誰かが淹れたのであろうコーヒーの匂いを嗅ぎながら、私は自身のタンブラーにお気に入りの紅茶のティーバッグをポトリを落とした。ウォーターサーバーのお湯をコポコポコポと注いでいけば、たちまち給湯室の香りはコーヒーから紅茶へとうつっていく。いや、少しコーヒーの方が強いけれど。
 ほんの少し蒸らす間、私は壁に飾られたカレンダーを見る。三月も始まって十日ばかり。年度末に向けて慌ただしい日常の中で、私も例年通り日々忙しく過ごしていた。
 そう、あまりにもいつも通りの毎日。

 先月のバレンタインからもうすぐ一ヶ月。
 確かに、あの日を境に何かが変わると確信したあの人との関係は、驚く程にいつも通りだった。いや、仕方ないと言えば仕方のない事なのだ。ただでさえこの時期は繁忙期に差し掛かるのに加え、ここのところ彼は毎週末出張であちこちへと飛び回っていた。
 あれ以来連絡はマメにする事にはなったけれど、デートをする暇もない私たちに、特別関係が大きく変わることもなく日常が過ぎていっていた。
 そろそろ頃合かとタンブラーからティーバッグを取り出し、ゆっくりと水気を切ってから、カレンダーの真下に置かれたゴミ箱へそれを捨てる。
 来週のホワイトデーには、何か彼からのアクションがあるのだろうか。それとも、私から何かするべきなのだろうか。そんな事をぐるぐると考えながら自然に小さく溜め息が漏れる。
 ダメだダメだ。仕事に戻ろう。まだまだやるべき事はたくさんあるのだと思考を切り替え、給湯室を出ようと振り向くと、タイミングよく人が現れ私は小さく声を上げた。
「お、尾形!?」
「なんだ、サボりか?」
「違うわよ」
 私をからかうようにニヤリと笑いながら同期の尾形は給湯室の入口に肩を預け声をかけてきた。飲み物を入れにきた私はともかく、今そこで立ってるだけなら君の方がサボりだと思うんだけど。
「まあいい。……お前、週末予定は空いてないか?」
「え、今週末? なんで?」
「あー……ホワイトデー、お返しの買い出し担当が今年は俺になったんだ。お前なら女性社員の好みのお菓子に詳しいだろう」
「ああ、そういう事」
 我が部署では、バレンタイン同様、一人一人にお菓子を用意するのではなく女性社員一同・男性社員一同というようにまとめてお菓子を購入して渡すという慣習がある。先月のバレンタインでは私がその買い出し担当だったが、今年はどうやらホワイトデーの担当は尾形らしい。
 じっと見つめてくる尾形の目を見ながら、私はその誘いを――


一覧へ戻る