軽やかな足が向かう先は
あら、今日はなんだか調子が良さそうね、と朝からチーフに声を掛けられる。この間といい私はそんなにわかりやすいんだろうかと少し恥ずかしくなった。
確かに、今日は調子がいい。夜は久しぶりにぐっすりと眠れたし、落ち込んでいた気持ちがスッと楽になったような気がする。何より、今日もきっとツキシマさんに会えるのだという嬉しさが、私の心を軽くさせていた。
定時のチャイムが鳴ると同時に、パソコンの電源を落とし足早に職場を後にする。ここ最近の重い足取りが嘘のようだった。単純だなぁと我ながら思うが、恋をすると人間はきっとこうなってしまうものなのだろう。
そう、私はツキシマさんに恋をしているのだ。週に三度、ほんの数分だけ会話をするお客さんのツキシマさんに。いい歳をしておいて、今更そんな事に気付くなんてと笑ってしまうが、今まで好きになってきたタイプと違っていた彼に、それもほとんどやり取りをしていた訳でもない彼に恋をしているなんて、自分でも気付かなかったのだ。
弁当屋に着くと、何となく厨房からいつもと違う雰囲気を感じて首を傾げた。おばさんが私に気付くと、困った事になったのよと開口一番に言う。
「実はねぇ、炊飯器が壊れちゃって」
「えぇ!? じゃあ、お米炊けないの?」
「保温用に使ってたのは動いてるんだけど、ガスの炊飯器がダメでねぇ。自宅から家庭用の持ってきてずっと炊きっぱなしだけど、それも限度があってさぁ……」
「えー、私の家からも持ってこようか?」
私の家は弁当屋から歩いて十分程度の距離なので、取りに行こうと思えば行ける距離だった。おばさんは少し悩んだ素振りを見せたが、首を横に振った。
「あんたの所のって言っても、一人暮らし用だからたかが知れてるだろう? 一応週明けに業者さんが来てくれるらしいから、今日はある程度人の多い時間帯まで頑張って、それが過ぎたら早めに閉めちゃおうかねぇ」
「んー、そっか。わかった」
おかずの販売だけでも、とも思ったが、うちの弁当屋でおかずだけ買って行くという客は少ないので、それも微妙だろうという判断のようだった。夜間のピーク時間は二十時前後。ツキシマさんが来るのは大抵十九時頃だが、遅い時は二十時はゆうに過ぎてしまう事もある。「明日もお待ちしてます」なんて昨夜言った手前、なんとかツキシマさんが間に合ってくれるといいなと思いながら、パートさんと交代をした。
時計は十九時半を指している。もう新しく米を炊く事もせず、保温器の中のご飯もあと数人分というところだろう。思っていたよりも早く客足が落ち着き始め、おばさんも早いけどもう閉めちゃおうかねぇと言いながら張り紙の用意をし始めていた。
ツキシマさんは、まだ現れなかった。仕事がひと段落したとは言っていたが、今日もまた残業になってしまったのだろうか。ギリギリまで待ってはみたが、おばさんがもうレジも締めてシャッターを閉めてきておくれというので、仕方なく張り紙を持ち表に出る。人が通れるほどのスペースだけ開け、シャッターを下ろし張り紙をテープでしっかりと留めていると、後ろから聞き馴染んだ声がした。
「あれ、今日はもう終わりですか」
振り向くと、そこにはツキシマさんが立っていた。
「すみません、ちょっと厨房で機械トラブルがあって」
「そうだったんですか」
「明日もお待ちします、なんて言ってたのにすみません」
「いえいえ、仕方ないですよ。謝らないで下さい」
それでは、と来た道を戻ろうとしたツキシマさんに、もう少し何かお話したいと思って声を掛けようとする。しかし、それよりも早くツキシマさんの方から、ぐううぅぅぅとそれはそれは大きな音がした。それがお腹の鳴る音だと気付いた頃には、ツキシマさんの耳が赤くなっていた。
「……っ、あはは、すみません凄くお腹が減ってたんですね」
「いやはや、お恥ずかしい」
そう言いながら振り返るツキシマさんは少し俯き、おでこの辺りをぽりぽりと掻いた。もう一度ツキシマさんがこちらを向いてくれた事が嬉しくて、その気持ちのままに私は勇気を出して声を掛ける。
「あの、もし、もしよければ、この後お食事に行きませんか?」
「えっ?」
「もう、お店すぐ閉めちゃって私帰れるので。その、私も今日まだご飯食べてなくてお腹空いてて、それで、その……本当に、よければ、なんですけど」
勇気を出してはみたものの、そもそもただの弁当屋とご飯なんて行くはずもないのでは、と徐々に恥ずかしくなり最後の方は少しずつ声が小さくなってしまった。ツキシマさんの顔をちらりと見ると、案の定吃驚した顔をしている。
「あ、あはは、いきなり過ぎますよね、すみません。気にしないで下さい」
「あ、いえ。えぇと、ではどこで待っていましょうか」
「えっ」
「えっ?」
「え、と……いいんですか」
「はい、ぜひ。ただ、この辺の飯屋はあまり知らないので、それでもよければ」
「それは全然! いくつかなら、知ってるので! えっと、ではすぐ着替えてくるので、角のコンビニで待っててもらえますか?」
「はい、では、また後ほど」
「はい!」
ツキシマさんの後ろ姿を見送ってから、急いで店内に戻る。おばさんが何かおかず持って帰るかいと声を掛けてくれたが、今日はいいと断りそそくさと帰り支度をした。こんな事なら今日はもっと可愛い格好をしてくるべきだったと後悔をするけれどもう遅い。せめて、とメイクを軽く直してから、おじさんおばさんに挨拶をして店を出た。
飛び出そうなほどに高鳴る心臓を精一杯抑えながら、ツキシマさんが待つコンビニへと向かう。空に浮かぶ三日月が、にんまりと笑って私を見ているような気がした。