何も知らない、だから知りたい
朝、雨の音で目が覚めた。いつもより二十分ほど早い時間だったが、二度寝する気にもならずそのままベッドを後にする。まだぼぅっとする頭でカレンダーを見る。月曜日。また一週間が始まる。少し憂鬱ながらも楽しみにしていた曜日だが、今日はただただ気持ちが落ち込んでいた。
ツキシマさんの姿を見なくなって、一週間と少し。弁当屋の手伝いは週に三度、月・水・金で入っていて、確か最後に来店したのはコイトさんが初めて来た先々週の水曜日だ。コイトさんが一人で再度来店をした金曜日から、ツキシマさんはぱたりと来なくなってしまった。最初こそ、初めて来店した時のように遅くまで残業をしているのだろうかと考えていたが、ここまで来店しなかったのは始めてで、色々な心配をしてしまう。お仕事が忙しいんだろうか、体を壊していないだろうか、それとももうここの弁当に飽きてしまったのだろうか、それとも、それとも……
考えても仕方がない事はわかっていて、それでも私に出来る事はこれだけしかなかった。改めて、私はツキシマさんの事を何も知らないのだと気付く。やっと名前を知れただけで、どこに住んでいるのかも勤め先も、ここが家と職場のどちらから近いのかも、もちろん連絡先も何も知らない。ただの弁当屋の店員とお客様というだけで、来店がなければそれで終わってしまう関係なのである。そんな当たり前の事に、今更ながら溜息が出た。
憂鬱な気持ちのまま仕事を進める。浮かない顔をしていたが、月曜日の社会人なんて大体はそんなものなのだろう、誰にも気に留められる事もなく通常業務で一日は過ぎていった。
定時のチャイムが鳴る。いつもならば、足早に職場を出て弁当屋に向かうが、何となく足取りは重かった。ツキシマさんは今日こそは来るだろうか。
そもそもどうしてこんなにツキシマさんの事が気になるんだろう。彼の事を何も知らないというのに。知っている事と言えば、お仕事がいつも大変そうな事と、ご飯が大好きな事(何度か、弁当のご飯を大盛りにした上でおにぎりを追加購入していて目を丸くした)、お魚よりもお肉系が好きな事、あんなに食べるのに体はしっかり引き締まっていて鍛えている事(スーツを着ていてもわかる胸筋にドキッとした事がある)、恐らく独身で彼女も今はいない事、律儀で真面目な人だという事、笑うと少し低めの鼻に皺が入ってそれがとても可愛いという事——そうだ、私は初めて彼の笑顔を見た時から、心が跳ねてずっと気になっていたんだ。
今まで好きになった人とは見た目のタイプは違ったけれど、つまりは一目惚れをしていたのかもしれないなと今になって気付く。まあ、今後も彼が来なければ、今更どうする事も出来ないのだけれど。
弁当屋に着くと、パートさんだけでなく普段は私がいない曜日に夜間のシフトに入っている大学生の男の子が客として来ていた。
「あ、お疲れ様です!」
「お疲れ様。珍しいね、どうしたの?」
「実は相談がありまして……今週だけミョウジさん自分の代わりに出てもらえたり出来ないですかね?」
「えっ、じゃあ今週夜間全部私ってこと!?」
「やっぱ無理ですよね……」
「いや、うーん……ちなみにだけど、なんで?」
「いやぁ、実は試験ちょっとやらかしちゃって、追試が一つとレポート追加になって……それが今週末までなんで、ちょっと厳しくてですね」
「うーん、なるほど……」
学業を理由に言われると断りづらい。自分だって数年前の学生時代、試験期間などはおじさんおばさんだけでなく色んな人に融通してもらったものだ。
「わかった、その代わりしっかり単位取ってきなね」
「ありがとうございます! 今度何か奢ります!」
「お、高くつくよー?」
「お手柔らかにお願いします」
「……ところでさ、ここ最近背の低くて坊主にスーツの男性って、来てる? 結構毎日のように来てるお客さんだと思うんだけど……」
もしかして、私が見かけていないだけで他の曜日には彼が来ているのでは、と思いアルバイト君に聞いてみる。首を傾げながら、その子は答えた。
「毎日、ですか? うーん、自分結構お客さんの顔とか覚えてる方だとは思うんですけど、そういう特徴のお客さんは記憶にないですね。スーツのお客さんは多いけど、坊主の人はいないかなぁ」
「え、ここ最近だけの話じゃなく?」
「いやぁ、多分数週間前までの記憶を呼び起こしてもないですね。一度二度くらいならあるかもですが、ほぼ毎日ってなると、はい」
ツキシマさんは、少なくとも私が出勤していた曜日には毎日訪れていた。だからてっきり他の曜日にもと思ったのだが、違ったようだ。
結局ツキシマさんの事はわからぬまま、その日も、その翌日も翌々日も彼は来なかった。せめてコイトさんが来てくれたら何かわかるかも知れないのに。
いよいよもう彼の来店はないのかも知れない、と諦めかけた木曜日、閉店時間の三十分前に扉を開いたその人に、私は目を見開いた。
「ツキシマさん! ……いらっしゃいませ」
「あれ? 今日は……」
いつもと違う曜日になぜいるのだろう、という様子で彼は私を見ていた。
「あ、今日はちょっと、代理で。何になさいますか?」
「はぁ、なるほど。えぇと、ではチーズハンバーグ弁当お願いします」
「はい。おばさぁん、チーズハンバーグ一つ入ります!」
注文を通し、会計を行う。今日はおじさんがいないから厨房へ入らないといけない。何か話すなら今だ、と勇気を出す。
「最近いらっしゃらないから、どうしたのかと思っていました」
「あぁいえ、仕事が立て込んでいて……」
「今日も遅かったですもんね、お疲れ様です」
「はぁ、いえ……ありがとうございます」
仕事だったのか、と心配と安心の矛盾した気持ちが入り混じる。だが、少しずつ親しくなっていたと思った彼との会話が、最初の頃のようによそよそしく他人行儀になっていて、違和感と少しの寂しさを感じる。こちらが案内するより先に彼は壁際の椅子へと腰掛けたので、私も厨房へ入る。多めにご飯をよそいながら彼の様子を眺め、初めて彼が来店した日の事を思い出していた。今日はおまけするものなんて、何もないけれど。
「チーズハンバーグ、お待たせいたしました」
「あぁ、はい」
目を瞑りながら椅子に腰掛けていたツキシマさんがカウンターへと受け取りに来る。よほどお疲れのようだった。
「あの、ツキシマさん甘い物はお嫌いですか?」
「え? いえ、好きですが」
「よかったらこれ、どうぞ。疲れた時には甘いものがいいですよ」
「はぁ……ふ、またおまけをしてもらいましたね」
おやつに食べようとコンビニで買っておいたチョコレートを、結局食べていなかった事を思い出し弁当と一緒に渡す。ほんの少し俯いて笑う彼の姿になんだかホッとした。先ほどの違和感が気のせいであればいい。
「明日も、お仕事忙しいんですか」
「どうですかね、ひと段落着いたとは思うんですが」
「本当大変そうですね……あの、」
「はい」
「明日も、お越しいただけるの、お待ちしてますね」
「……ふ、わかりました」
あぁ、この笑顔だ。私の心があの日と同じように大きく跳ねる。ありがとうございましたといつものように頭を下げると、こちらこそおまけをありがとうと彼が手を振る。
小さくなる彼の背中を見送りながら、久しぶりに早く明日になりますようにと何度も何度も願った。