思いがけない愛を知る

「百ちゃん、おかえり!」
 満面の笑みで愛しの旦那様を迎えると、玄関の扉に手をかけたまま百ちゃんは訝しげな顔をした。ビシッと決まったスーツ姿は何度見ても格好いい。
「なんだ、ご機嫌でお出迎えとは」
「んー? ふふふふふ」
「なんだ」
 うにょん、と私の左頬を弱く摘みながら百ちゃんは言う。
「いひゃい」
「で、なんなんだ」
「ふふふ、今日はなんの日でしょうか!」
「……今日?」
 スーツの上着を脱ぎながら百ちゃんは少しだけ眉を顰め、視線を動かしながら思考を巡らせる。誕生日ではもちろんない、記念日はまだ先だし……意識を集中させていなければ聞き逃すほど小さな声で百ちゃんは呟く。
「今日はですね、十一月二十二日です」
「それは知っている」
「つまり、いい夫婦の日です!」
「……はぁ?」
「結婚して初めてのいい夫婦の日なんだよ、百ちゃん!」
 瞳をキュッと縦に細めながら、ネクタイにかけた手を止めて百ちゃんは私を見る。
「なんの日だと?」
「いい、夫婦の、日!」
 ほら、いちいちにぃにぃでーと私が説明すると百ちゃんはつまらなさそうな顔を浮かべ小さく息を吐いた。あまり興味がなかったらしい。先ほどまではしゃいでいた気持ちがしゅんと萎んでいくのを感じた。
「なんかそういう語呂で、よく言われてるらしくて」
「そうなのか」
「……ごめん、すぐご飯にするね」
 百ちゃんと私との温度差になんだか悲しくなりつつも、キッチンに向かい夕飯の支度を再開する。もう一度温め直してお皿によそえばすぐ食べる事は出来る状態にしてあった。隣の部屋でスーツから着替えてきたであろう百ちゃんが、再び玄関へ向かう音が聞こえて、慌ててそれを追いかける。
「あれ、どこ行くの?」
「煙草が切れてたから買ってくる。すぐ戻る」
「そう……わかった」
 そう言って百ちゃんが玄関から出ていくのを見送った。
 
 私と百ちゃんは幼い頃からの仲で、そして私が長いこと片思いをした結果何やかんやの末に結婚をした。昔から、好きなのは私ばかりで百ちゃんは半ば私に折れる形で結婚までに至ったように思う。それなのに私が変にはしゃいでしまったもんだから、百ちゃんとしては鬱陶しかったのかもしれない。
「いつまで経っても、片想い気分だなあ」
 結婚したと言っても籍を入れただけで、結婚式はしていない。純白のウェディングドレスも指輪もいらないからただ百ちゃんが欲しいと望んだから、それはちっとも後悔していない。だけど、紙切れ一枚だけの手続きではどこか結婚したという実感が湧かないままのようにも思えた。
 
 キッチンに立ってコンロの火を止める。もう十分に野菜たっぷりのコンソメスープも、ハート型に成型してトマトソースで煮込んだハンバーグも食べ頃の温度だと言うのに、百ちゃんは一向に帰ってこない。近所のコンビニは徒歩五分の距離だ。先ほど家を出てからもう三十分は経っているように思うのに、未だ玄関から外を覗いても百ちゃんは見当たらなくて、途中で事故にでもあったんじゃないかと途端に不安になった。連絡を取ってみようかと携帯を手に取ったところで、玄関から物音がして慌てて駆けていく。
「百ちゃんおかえり、遅いから心配……した……」
「ん。悪かったな」
 そう言う百ちゃんの手には、少し小さめの花束が握られていた。花束というよりも、ミニブーケと呼ぶ方がしっくりとくるそれを私の目の前まで掲げ、ほらと百ちゃんは言った。
「え、なになにこれどうしたの?」
「少し行ったところの花屋でな。いきなりだったから小さいので我慢しろ」
「え、え、何今買ってきてくれたの?」
「ああ。ったく、ああいうのは当日の夕方じゃなくて、前もって言え。せめて朝のうちにだな」
 小言のように言う百ちゃんに、未だ状況が掴めず固まっていると、
「なんだ。俺の奥さんはこれじゃお気に召さなかったか?」
 と眉を顰め、自身の髪を撫で上げながら彼は言った。その言葉の響きがくすぐったくて、思わず顔を緩ませる。
「ま、待って。百ちゃん今なんて言った?」
「気に入らなかったか、と」
「その前!」
 先ほどの言葉をもう一度欲すれば、察したように百ちゃんはニヤリと口角を上げた。
「俺の奥さんは、お気に召さなかったか?」
「気に入った! とっても気に入りました!」
 ミニブーケを抱えたまま、百ちゃんの方へ駆け寄り彼の太い首に腕を絡ませた。身長差があるせいでほんの少しだけ私の体が浮く。
「ふふふ、奥さんだって」
「そうだろうが」
「そうでした、旦那様」
 ちゅっと彼の頬に唇を押し当てれば、百ちゃんは顔をこちらに向け、私の唇に口付けをした。長くて甘いキスに先ほどまでの不安は一瞬で吹き飛んでしまった。我ながら単純だなと笑ってしまう。
 やっと唇が離れてからも、「私百ちゃんの奥さんなんだなぁ」なんて噛み締めていると百ちゃんは私を抱えてそのまま寝室へと向かった。
「え? あれ? 百ちゃん? ご飯は?」
「どうやら俺の奥さんはまだ結婚した実感が湧いてないらしいからな」
「えっ、えっ?」
「俺たちが立派にいい夫婦だと言うことをちゃんと教え込んでやらんといかんようだ」
「え、ねえ待って。百ちゃん?」
「なにしろ、今日はいい夫婦の日らしいからな」
 ちっとも噛み合わない百ちゃんとの会話。それでも百ちゃんが私に触れる指先からは温かな愛情が伝わってきて。
「もう、せっかくご飯作ったのに」
「後で美味しくいただくよ」
 お前をしっかりいただいた後でな、と真っ黒な瞳を今度は横に細めながら彼は笑った。
 片思いのように感じたこの気持ちがしっかりと彼からも向けられていた事を理解するまで彼に愛され、やっとご飯にありつけたのはどっぷりと夜も更けた頃だった。「明日が休みでよかったね」なんて笑えば、ハンバーグを口に含んだ彼がまたニヤリと笑って「ああ、まだたっぷり時間があるからな」と言われ、思っていたよりも愛されていたんだなぁと思わぬ形で実感する夜になったのだった。

尾形からの「俺の奥さん」破壊力すごいな?と書いてる時脳内再生して悶えた記憶があります。
初出・2022/11/22