23:55をお知らせします
一人きりの部屋では、微かな動きによる衣擦れの音さえも響き渡る気がする。しんと静まり返ったこの部屋で、私は二十三時五十五分にアラームを設定出来たことを確認してスマートフォンを机へと置いた。
もう少しで二十三時半を回ろうとする頃。
未だ連絡がないという事は、きっと帰宅するのは日付が変わる頃だろうなと彼の顔を思い浮かべた。あんまり飲まされていないといいけど。
一月二十一日、土曜日。大安吉日。
その翌日、つまりあと数十分後に二十七歳の誕生日を迎える私の彼・尾形百之助は、今夜は友人の結婚式に出席している。
同じ大学出身で、共通の友人も多い私たちだが、今日百之助を招待してきた彼と私は親しくはなかったので私は留守番だ。当時よく連んでいた杉元くんや白石くんもいるらしいと言っていたけど、みんな元気にしているのだろうか。明日帰ってきた百之助にたくさん話を聞けたらいいな。
ソファで毛布にくるまりながらそんな事を考えていると緩やかに夢の世界へと誘われようとする。今週も仕事は忙しかった、きっと疲れが溜まっている。
だけど、この心地よい温もりの中で目を閉じてしまってはダメだ。誘われるままに旅立ってしまえば、おそらく私は夢の世界から戻っては来られないだろう。
首を横に振りながら、眠気を必死で取り払い、もう一度時計を見た。先ほどから五分と進んでいない秒針を睨みつけるように目を開く。
大学四年から付き合い始めた百之助とは、もう恋人になってから六年目になる。その間、毎年お互いの誕生日にはなんとなく日付が変わる瞬間には一緒に過ごしていた。
今でこそ一緒に住んで三年になるが、それより以前は会えなくても電話だけでもその瞬間を共に迎えたものだった。
周囲の人にその話をすると、若いわねぇだとか仲が良いわねぇだとか揶揄されるけれど、もう単純に習慣となっているに近いのかもしれない。
だから今夜、零時ぴったりに百之助がそばにいない事も、電話を出来ない事も私の中ではなんとなく気持ちが悪かった。せめて、ぴったりの時間にお誕生日おめでとうのメッセージを入れたかった。
うっかり時間を過ぎてしまわぬようにとかけたアラーム。万が一眠ってしまっても、起きれるようにと工夫をしたから大丈夫だろうと思いつつ、それでも何とか起きておこうと眉間にしわを寄せた。
ここにいるから眠いのだ、毛布に包まれているからいけない。そう思い立ち上がると、玄関からカチャカチャと音が響いた。
慌ててスマートフォンを確認したけれど、彼からは何の連絡も入っていなかった。帰る時には連絡を入れると言っていたのに珍しいと思いつつ、玄関へと駆け寄る。
「おかえり、思ったより早かったね。連絡なかったから心配してたよ」
「途中で充電が切れてな。それにしても、起きてたのか」
「うん。もうちょっとで寝ちゃいそうだったけど、起きてたよ」
「ははぁ、ちゃーんと帰ってくるのを待ってたのか?」
普段はしないようなフニャッとした笑みを浮かべて、彼は私に体を預ける。あ、これはかなり酔ってる。
「結構飲んできたね?」
「まあ、普段よりはな」
「んもー、お酒くさいよ」
「いやか?」
「嫌とかじゃないけど。ほら、ちゃんと歩いて。お水いる?」
か弱いタイプでは決してないけれど、だからと言ってやや筋肉質の成人男性の体を支えられるほどは力強くはない。
覚束ない足で歩く百之助に肩を貸しながらリビングへと移動してソファへと座らせる。
冷蔵庫からペットボトルの水を取り差し出すと、百之助はボトルではなく私の手首を掴んで引き寄せた。急な事にバランスを崩し、そのまま彼の腕の中へと包まれる。
「ちょっと」
「みず、飲ませろ」
「自分で飲みなさい」
「飲ませてくれ」
「……もう」
この要求の意図はわかっている。普通に飲ませるのではなく口移しをしろという事だろう。わかった上で、ペットボトルの蓋を外しそのまま飲み口を彼の唇にあてがおうとすると、いやいやとでもするように彼は首を振った。
人並みには飲めるけれど、彼は決してお酒が強い訳ではない。ある一定量を超えると時々こうやって甘えてくる事がある。
しっかりと整え固められた髪、顎に携えた髭、全てを見透かしてきそうな真っ黒な瞳。お世辞にも可愛いとは言えない見た目のその彼の、こんな一面が可愛らしくて愛おしい。
仕方ないな、なんて口では言うけれど、満更でもない私はそっとペットボトルの水を口に含み、そして彼の唇へと重ねた。口内の水分が彼に移った後も、唇は離れない。離されなかった。
「ちょ、ひゃく、お水こぼれる」
「ん」
何とかそれだけ伝えると、彼は名残惜しそうに少し体を離す。私が「もういらないのね?」と問えばこくりと頷いて、早くそれを置けと言わんばかりの目線を寄越した。
蓋をしっかりと閉めたペットボトルを机の上に置くと同時に、百之助はまた私の体を引き寄せて唇を重ねた。吐息からほのかにアルコールの匂いがする。私は一滴もお酒を飲んでいないというのに、その匂いだけで私も酔ってしまいそうだった。
彼の左手で後頭部を押さえられ、逃げられない姿勢のまま何度も角度を変えてはキスをする。ぬるりと彼の厚い舌が口内に侵入し、右手が私の服の中に入ってきた。
その時だった。
机の上に置いたままの私のスマートフォンから、軽快な着信音が流れた。そうだ、アラームをかけていたんだった。慌てて、手を伸ばしスマートフォンを手に取る。何となくメッセージを送るためにアラームをかけていた事が恥ずかしくて画面を彼に見せないように音を止めた。
そうして顔を上げると、そこには眉を顰めどこか怒ったような顔をした百之助の姿があった。
恥ずかしながら、私は朝が強い方ではない。一度寝てしまうと、アラームで起きてもずるずると二度寝をしてしまうタイプだ。だけど、電話の音が鳴り響くと「寝坊した⁉︎」と慌てて飛び起きるタイプである。
だから、もし万が一眠ってしまってもちゃんと起きれるように、アラームの音には普段着信があった時と同じ音が鳴るように設定しいていた。
そんな事情を、百之助はもちろん知る由もない。こんな遅い時間に電話が来る事なんて滅多にない私に、「誰からだ」「何のようだ」「男か?」と彼は矢継ぎ早に投げかけた。
「ちが、違うの。あのね百之助」
「なんだ、俺の帰りが遅いと思って別の男と楽しくお喋りでもするつもりだったのか」
「そんな訳ないじゃん」
「じゃあ何で隠したんだ」
「だからそれは」
「それは、なんなんだ」
時計を見れば五十八分。やだ、こんなムードで彼の誕生日を迎えたくない。「何となくアラームのことを知られるのが恥ずかしい」なんて言ってる場合じゃない。
グッと、手のひらに握りしめたスマートフォンの画面を彼に向ける。未だアラームの設定画面が開かれたままのそれを彼は見て、怒りの表情から疑問を浮かべたような表情に変わっていった。
「私、てっきり百之助が帰ってくるの、もっと遅くなると思ってたの」
「……」
「それでね、いつも誕生日の時は、日付が変わる瞬間一緒にいるのになって思って。せめてメッセージだけでも送りたいなって」
「……ほう」
「もし寝ちゃったりしたら嫌だから念のためアラームかけてたの。それだけ。なんかそれ知られるの恥ずかしかったから、画面隠しただけ。信じて」
「……なんだ、そうか」
「ギリギリで変に不安にさせて、ごめんね。……お誕生日おめでとう、百之助。大好きだよ」
零時ぴったりになったのを確認して、私は彼にそう告げた。
バツが悪そうな顔をしていた彼は、私の言葉に安心したような顔を浮かべ、「疑って悪かった」と珍しく素直に反省の言葉を並べた。いつもこれくらい素直だったらいいのに。
「それにしても、もしかしてこれの為に起きてたのか?」
「ん? んー、まあ……」
「……ははぁ、お前は本当に俺のことが大好きだなぁ?」
ニヤリと口角を上げながら、彼は私の頬を優しく撫でた。
「さっき疑ったくせに」
「だからそれは悪かった」
「ふんだ」
「そう怒るな」
そう言ってまるで機嫌を取るかのように彼はまた唇を重ねてくる。先ほどのような、その先があるような激しいキスではなく、優しい口付けだった。
「怒ってない、怒ってないよ」
「ん」
「大好きだからね」
お返しに私からもキスをして、そっと抱き締めると、彼の腕も私の背中を包んだ。
「……よし。ほら、シャワー浴びておいで」
「ははぁ積極的だな?」
「違うわよばか。明日のデート、行かないつもり?」
「久しぶりにゆっくり家で過ごしてもいいぞ俺は」
「だーめ、明日は百之助のプレゼント選びに行こうって言ってたでしょ」
「わかったわかった」
そう言って浴室へと彼が向かう。先に寝ててもいいぞなんて言うけれど、すっかり目は覚めてしまった。
ちっとも飲んでいないのに口の中からほんのりアルコールの味がする気がして、少しだけ悔しくなる。ええい、一本だけならいいかと冷蔵庫から缶ビールを取り出して飲んでいると、彼がリビングへと戻ってきた。
「何だ、飲んでるのか」
「誰かさんのせいで、口の中がお酒の味になっちゃって」
「へぇ、誰のせいだろうな?」
「あ、ちょっと」
まだ半分ほどしか口のつけていない缶ビールを彼が奪い、ぐいっと飲み干す。
「もう、さっきも飲んできてるくせに」
「お前こそ、あんまり飲んでないで早く寝ないと明日起きられないぞ」
「わかってるよ。まったくもう」
空いた缶を片付けて歯磨きをして、そうして百之助と一緒にベッドへと潜り込んだ。帰宅した頃は心配になるほど酔いが回っていた彼も、だいぶ落ち着いてきているらしい。それでもかなり眠くはなってきているようで、瞼がとても重たそうだ。
「明日、どこにプレゼント見に行こうか」
「特に今欲しいものはないんだがなぁ」
「そんなこと言ってるとプレゼントなしにしちゃうよ」
「……なあ」
「ん? なんか欲しいもの思いついた?」
「お前のここのサイズは、何号だ」
「……へ?」
モゾモゾとシーツの上で彼の手が私の指を包み込む。ここと彼が掴んだ指は、左手の薬指。
「た、確か九号」
「そうか、九号だな」
「え、なに、何で急に」
「さあ、何でだろうな?」
ふふん、と満足げに笑った後、彼はあっさりと瞼を閉じて眠った。すっかり眠れなくなった私を残して。
「……ほんっとうにもう」
だけど、日付変わって今日は彼の誕生日。いつものように気まぐれな彼にも、黙って振り回されてあげようじゃないか。それはきっと、私なりの彼への祝福だ。
下ろされた前髪をひと束掬って指で弄んで、そしておでこにキスをひとつ落とす。そうして、私もゆっくりと目を閉じた。どうか彼が穏やかで幸せな夢を見られますようにと、願いながら。
おまけの話
翌朝、百之助よりも早く目が覚めた。いつもは彼の方が先に起きて私が起こされる事の方が多いというのに。
まあ、あれだけ飲んでいたのだ。もう少しゆっくり寝かせていても問題はない。
彼を起こさないようにそっとベッドを抜け出して、トイレへと向かった。
用を足して顔を洗って、それからスマートフォンを見るとメッセージが入っているのに気付く。動画が添えられたメッセージの送り主は、白石くんだった。
『やっほー、久しぶり! 昨日二次会で余興したんだけど、その時に撮ってもらった動画見てたらちょっと君に聞かせたくなっちゃって。俺の余興は見なくていいから、音だけでも聞いてみて! ぜひ、尾形ちゃんのいないところでね♡』
そんな内容のメッセージに、何が入っているのだろうと首を傾げる。
寝室からは、百之助がまだ起きてくる気配はない。普段使っているイヤホンを耳にはめ、動画を再生する。貸切のこじんまりとしたレストランで、白石くんを含めた何人か女装をしてアイドルダンスをする姿に思わず吹き出す。みんな相変わらずだな。
そんな事を思っていると、音楽が流れている中から、聴き慣れた声がした。百之助と、杉元くんの声だった。撮影してくれた人の近くに座っているらしい。
白石くんが聞かせたいものって、これだろうかと少しだけ音量を上げて意識を集中させた。
「はは、相変わらずだな白石のやつ」
「まったくだ」
「相変わらずと言えば、お前らはどうなの? まだ続いてんだろ」
「あぁ、まあな」
「大学の時からだから、もう長いよな。結婚とか、そういう話出ないの」
「……さあな」
「おい尾形〜お前、そういうのちゃんとさせないとよくないぜぇ? 大学時代あの子結構人気あったし、今もモテるんじゃないの? 知らないぞ、どっかの誰かに掻っ攫われても」
「……そんな事あるわけ、」
「お前はあんまり結婚願望ないかもだけど、前に人並みには憧れがあるって確か言ってたぜ? まあ大学の頃だから、今は違うかも知れないけどさ。お前にその気ないならないで、ちゃんと話してあげないと〜」
「チッ、うるせえやつだ」
「あ? 一応心配して言ってやってるんだけど?」
「余計なお世話だ」
「……あーそうかよ! ったく、よその男に取られたって泣いても知らねえぞ」
「……確かに結婚願望はないが、あいつがそのつもりなら俺は別にする」
「どうだか」
「あいつ以外となんて考えられないし、あいつが俺以外となんてありえないからな」
「ありえないって何」
「ありえないものは、ありえない」
「何それ、あの子がお前以外と結婚するようなことしないって?」
「あぁ、あいつは俺のことが好きで好きで仕方がないからな」
「……お前があの子を、の間違いだろ」
「ウルセェ」
その言葉が聞こえたところで、動画は止まっていた。ダンスの余興が終わったのだった。
ダンス映像なんて、ちっとも頭に入って来なかった。百之助と杉元くんの会話を、何度も頭の中で反芻させて、昨夜寝る前に聞かれた指輪のサイズの意味にほんの少しだけ期待をした。
結局のところ、起きてきた百之助はほんの少し二日酔い気味で、しかも昨夜の記憶が朧げの様子で。そんな彼に少しだけがっかりしながらも私はまた彼のお世話を焼くのだった。仕方ない、だって私は彼のことが好きで好きでたまらないのだから。
それから数ヶ月後の私の誕生日、きっちりサイズぴったりの指輪を添えてプロポーズのプレゼントがあったのは、この時の私は知らないまた別の話である。
初出・2023/01/22