プルースト A

 出会った頃のことをなぜだか不意に思い出したのは、多分きっと、懐かしい匂いが鼻腔をくすぐったからだと思う。
 匂いの元を辿れば、少し先にコンビニがあり、その店先で作業着姿の男がレンガの積み上げられた塀にもたれかかってタバコを吸っていた。遠目だからその銘柄は確認出来ないが、おそらくあの頃彼が吸っていたものと同じものだろう。なかなかこの銘柄を置いているコンビニがないのだと、よく愚痴を漏らしていたのを思い出す。この店には、あのタバコが置いてあるのだろうか。
 こんな風に、ようやく暖かくなり始めた春の日だった。新卒で入社した会社で、直属の先輩だった彼。小言が多くて嫌味ったらしくて、かと思えば陰でとても努力をしていて、仕事を教えるのだってすごく上手で。憧れ以上の感情を持つのに、そう時間はかからなかったなぁ。あの頃、いつも遅くまで残業しては、タバコの匂いを漂わせてたっけ。体に悪いですよ、と何度も何度も止めたのに、自分の体を思い遣って禁煙をする事なんてなかった。
「おい、何ぼーっとしてる。こけるぞ」
「あぁ、ごめんごめん」
 コンビニの前を通り抜け、細い路地の方へと曲がると、百之助は私の腕を引いてそっと車道側と入れ替わった。こんな気遣いも、あの頃はしてくれなかったっけ。いつからそんな風になったんだっけなぁ、なんて思わず口元を緩ませながら私は思い出をなぞる。
 歩きながらコツンと彼の手に指先が触れ、そのまま指を絡め取った。人通りの少ない道で、彼の腕にピッタリと頬をくっつけるように身を寄せて歩けば「歩きづらいだろうが」と頭の上から声が降ってきた。そう言う割に特に避ける素振りもしないところ、好きだよ。
 あの頃はこうして歩けば、腕からだってタバコの匂いがした。だけど、今は優しい柔軟剤の匂いしかしない。私の服と同じ香りのはずなのに、彼が身に纏うとより安心するのはなぜだろう。いつだって不思議な気持ちになる。
「なんだ、どうした」
「出会った頃を、思い出してたの。さっき、百之助が昔吸ってたタバコの匂いがしたから」
「おい、ちゃんと副流煙も避けろよ」
「わかってる。でも不可抗力だったんだもの」
 彼が禁煙をしてから、まだほんの数ヶ月だ。それなのに、タバコの匂いをさせていたのがもっとずっと昔のように感じてしまう。
「自分の為には、ついぞタバコをやめなかったのにね」
「あ?」
「君の為にちゃんとタバコをやめてくれて、よかったねぇ」
 そっと膨らんだお腹を撫でれば、彼は照れ臭そうに目を逸らした。
 あと少しで、大通りへと出てしまう。人で溢れる道へと出る前に、私はもう一度彼の腕に絡みついて、彼の匂いを肺いっぱいに吸い込んだ。それはとても、幸せな香りだった。

タバコをテーマにした夢小説の話をフォロワーさんとしていて思い浮かんだお話。ハッピーな方です。
初出・2023/03/15