プルースト B
彼のことを急に思い出したのは、多分、鼻先に届いた懐かしい匂いのせいだと思う。
飲み会の帰り道、まだなんとなく帰りたくなくてふらりと一人でバーへ立ち寄った。二つ席を空けてカウンターに座ったカップルの男性が吸っている煙草の匂いが、私の記憶の箱を容易く開かせた。テーブルに置かれる煙草のパッケージをチラリと盗み見る。あぁそういえば少し前にデザインが変わったんだったっけ。
さっぱりしたカクテルを頂戴、と言うざっくりとしたオーダーに対して出されたギムレットで喉を潤しながら、ゆっくりと目を閉じる。
彼とは、大学の同級生だった。学科は一緒だったけれど特に接点もなかった彼と仲良くなったのはゼミが一緒になってからだ。大学三年生の春。そう、ちょうどこんな気温の夜だった。親睦会と称した飲み会で隣に座った彼との会話が思ったよりも弾み、それからはあっという間に距離が縮まり恋人になった。あの飲み会の時にはすでにこの煙草を吸うようになっていたんだっけ。煙草の匂いは嫌いなはずなのに、なぜか彼から漂う煙の匂いだけは嫌いになれなくて、私は彼に鼻先をくっつけてその匂いに包まれるのが大好きだった。
「尾形、また煙草吸ってる」
「悪いか」
「ううん。私、尾形がさせる煙草の匂いは、嫌いじゃない」
「そうかよ」
だるそうにそう言う声も、抱きついた私の体をそっと撫でる彼の大きな手も、吸い込まれそうな黒い瞳も、全部全部大好きだった。
だけど私たちは、卒業してお互い社会人になって、恋人同士ではなくなった。最初は些細なすれ違いだったものが、どんどん溝が深くなっていった。掛け違えたボタンは、ついに修復出来なくなって別れに至ってしまった。
あれからもう、三年も経っている。だけど酔いも手伝って、私は無性に彼に会いたくてたまらなくなってしまった。
バッグの中からスマートフォンを取り出して、アドレス帳を“あ”から順に辿っていく。きっちり三回指を画面の下から上に滑らせると、“尾形百之助”の文字が映し出される。本当は電話を掛けてしまいたかったけれど、ほんのわずかに残っていた理性が踏み止まらせ、代わりにメッセージ画面を開いた。
『久しぶり。元気?』
意外にもそのメッセージにはすぐ既読がつき、メッセージが返ってくる。それだけで私の胸は熱くなった。
『久しぶりだな。元気してる。どうした?』
『尾形が吸ってた煙草、久しぶりに見かけて思い出しちゃって。今もあれ吸ってるの?』
『いや、タバコはもうやめた』
『へぇ! そうなんだ、意外!』
『嫁が妊娠中だから、いい機会だと思ってな』
「……え」
静かな店内に、私の呟きが小さく響き渡る。嫁。妊娠中。それで、禁煙? あの、尾形が?
先ほど胸に灯った熱いものは一瞬で冷えていく。なんなら酔いも冷めていくのを感じていた。震える指先でなんとか文字を打ち込み、送信ボタンを押す。
『へぇ、そうなの! あの尾形がパパかぁ、変な感じ』
『そうだな。お前も、元気で幸せにな』
さらりと返ってきた返事は、どこか遠回しに突っぱねられたように感じ、私はスタンプを一つ押して画面を閉じた。
喉が渇くのを感じて、私はギムレットを流し込む。偶然運ばれてきたこのカクテルが、なぜだか今の私にぴったりな気がして、自嘲気味な笑いが零れた。
隣から流れてくる白い煙が目に染みる。私はまた目を瞑り、ゆっくりと記憶の箱を閉じ込めた。
初出・2023/03/15