嫌ってほど好きで、憎たらしいくら愛してる
堪忍袋の緒が切れる瞬間って、ぶちっとかぷつんっとかいう音がするのではなく音が途切れてしまうのだと、私は初めて知った。
先ほどまで耳に届いていたシャワー音さえも消えてしまったように思う。
床に転がっていた小さなイヤリングを静かにテーブルに置いて、私は鞄を引き寄せた。中からキーケースを取り出して乱雑にこの部屋の鍵を外し、近くに置いてあったチラシの裏にペンを走らせる。
本当は何も残さずに立ち去りたかったが、これが私なりの最後の情けだ。
『可愛らしいイヤリングね、きっと持ち主も可愛らしいんでしょう。どうぞこの鍵はその彼女にお渡しください。もう疲れた。さようなら』
きらりと光を浴びて輝くイヤリングとは正反対の、可愛さのかけらもない言葉たち。最後はもう殴り書きだ。ぐしゃぐしゃのさよならの文字は、私の心をそのまま写したようだ。
耳鳴りがする。微かに響く水音がキュッと音を立てて止んだのがなんとか聞き取れて、私は急いで上着を羽織り玄関へと向かった。部屋の主が戻る前には立ち去りたい。
急ぎ足で、だけど極力音は立てないよう気を付けながら玄関へ向かい靴を履き、そしてドライヤーの音が聞こえたのを合図に私は重い扉を開いて外へと出た。
何年も訪れたこの部屋とも今日でお別れなのだと最後に一度振り向く。胸は酷く痛むのに、涙は一粒もこぼれてこなかった。もうずっと、こんな日が来るのを知っていた気がした。
ギリギリ間に合った家へと向かう最終バスに揺られながら、コートのポケットに入れた電子機器が何度も震えるのを感じていた。だけど中身を見ないよう、私はひたすらに窓の外を眺めている。この景色も、きっともう見ることはなくなるだろう。この辺りには、彼の部屋へ向かう以外に用など無かったのだから。
週末の、最終バス。人の少ない車内で、あの日見てしまった女の人の写真の事を思い出していた。構ってくれない彼の肩に顎を預け、彼のお腹に腕を絡ませて。「そうだこの間言ってたカフェ、杉元たちと行ってきたぞ」「えぇ、抜け駆けぇ。なんか写真とかないの?」そんな会話をしながら彼が開いた携帯端末の画像フォルダに、ちらりと女の人の影。画像が小さいままだったからどんな人だったかはわからないけれど色白で儚げな雰囲気の女性だった、ような気がする。
私にヤキモチを妬かせようとわざと女の人との話をしたり、目の前で親しげにしたりする事はこれまでにもあった。
だけど、その女性の写真は隠すようにいつもより早く指をスクロールさせたところまで気付いてしまった。三年と半年の付き合いは伊達じゃない。その人のことは、私にとって
バスを降りて家へ辿り着く頃には、メッセージが五通と七回の不在着信があった。
『おいどこ行った』『本気で言ってるのか?』『電話出ろ』『家に帰り着いてるのか』『せめて既読をつけろ』
お望み通り既読はつけたけれど、それ以上の反応は返さない。パチリと電気をつけてキーケースと携帯を棚に置いて、その隣に飾っていた写真立てをそっと伏せた。無愛想な彼と笑顔の私。今はそんなもの、見たくなかった。捨ててしまいたいほどの衝動に駆られるけれど、それが出来ないのはほんの少しの理性と未練のせいだ。
相変わらず涙はこぼれない。ずっと胸の辺りだけが苦しくて、私はベッドへと倒れ込んだ。何も考えたくなくて、必死に目を閉じて考える事を拒絶する。眠ってしまえば、全て夢になって消えてしまう気がした。
*
私の恋人、尾形百之助は同じ大学の同級生だった。
学科は違ったけれど、いくつか共通講義として同じ講義を受けていた。その内の一つで、眠気を誘う教授の何気ない脱線話が妙におかしくクスリと笑うと、近くから同じように空気が揺れる気配がした。そっと振り返れば、そこにはいたのは百之助だった。他の誰もが気にも留めないような教授の言葉に私たち二人だけが笑ったことがおかしくて、もう一度にやりと笑って百之助の目を見たのを覚えている。
そんな些細なきっかけで私たちは会話を交わすようになった。何度か同じ講義を取る同級生たちと飲み会をして、いつも女の子に囲まれる百之助が私の隣に座るようになって、その内飲み会に誘われても行かなくなって、代わりに二人で飲みに行くようになった。
薄い長袖が半袖になって、そしてまた長袖へと衣替えをするようになった頃、「お前が隣にいるのが一番落ち着く」と彼はそう言って私の髪を撫で、どちらからともなくキスをした。はっきりと好きも愛してるもなかったけれど、お互いに同じ気持ちだと思った。それから私たちは友達から恋人になった。
彼は何かにつけて女の子に囲まれる、モテる男だった。最初はそれをあしらっていた彼に安心していたが、気がつけば百之助は、私が何も言わないのをいいことに堂々と目の前で他の女の子たちと親しげにするようになった。
飲み会なんて行こうものなら、以前までは私の隣をすぐに陣取ってきたくせに、私から見える位置で堂々と両手に女の子を侍らせて酒を飲んでいた。腕にまとわりつく女の子だってお構いなし、豊満な胸を押し当てる彼女たちから逃げることさえしなかった。
その度私は、はらわたが煮えくり返るような思いに駆られていた。どうしてそんな事をするのと強く百之助を非難したこともある。そうすると決まって彼は、「俺からは何もしてない」「あいつらが勝手に寄ってきているだけだ」「浮気してるわけじゃない、俺にはお前しかいない」と真っ直ぐに私の目を見て言うのだ。確かにそれは事実で、どんなに目の前で女の子から擦り寄られても百之助から何かする事は一度もなかった。メッセージの履歴を目の前で彼から見せられたこともあるが、女の子から連絡が届くことがあっても彼から返すことはほとんどなく、あっても一言二言のみだ。
共通の友人に相談したこともある。だけど、「尾形ちゃん、あんな事するの君の前でだけなんだぜ」「多分、君がヤキモチ妬くところを見たいんだろうな……本当悪趣味だよなクソ尾形」「でも、逆に君がいないところでは相変わらず他の女の子には塩対応だから安心していいと思うぜ!」と言われ、私はもう何も言えなかった。
何度か衝突する事もあったけど、私の就職が決まり彼は大学院への進学が決まって、そんな事も減っていった。お互いに仕事と研究で忙しく、会う時間は減ってしまったけれどその分電話やメッセージのやり取りを増やして、会える時にはこれまで以上に互いを大事にするよう心掛けていたと思う。
だけどどこかで私は、ずっとずっと不安だった。百之助は、確かにモテるけれど私にヤキモチを妬かせる目的以外で女の子と仲良くしない。それはただ思い込みたかっただけで、本当のところ見てないところではまた女の子たちに囲まれているのではないか、その内その誰かに取られてしまうのではないかという気持ちが、いつだって私の心にこびりついて消えなかった。
そんなものが積もり積もっていたところに、見知らぬ女の人の写真の件があり、そして久しぶりに訪ねた彼の部屋に転がったイヤリングときたものだ。私の不安は爆発してしまった。そして冒頭に戻るのである。
*
不意に寒さを感じて、私は閉じていた瞼をそっと開いた。結局あの後ベッドに倒れ込んだまま眠っていたらしい。薄暗い室内からカーテンの外を覗いたが月明かりのままだ。暖かくなってきたとは言え、夜はまだ冷え込む。何かもう一枚羽織ってもう一度ベッドに入ろうと起き上がったところで、私は違和感を感じた。
私、電気消したっけ?
ドクンと心臓が跳ね、そろりと足を動かして電気のスイッチがある場所へと移動する。パチリと電気をつけ振り向くと、ソファの上にポツンと人影があった。
「な、なんで」
「起きたか」
そこにいたのは、百之助だった。
どうして、と思ったけれど、冷静になってみれば当たり前のことだった。私は彼の部屋の鍵を置いてきたけれど、彼に渡した合鍵はそのままだったのだから。バスがなくたって、タクシーを使えば来ることは出来なくもない距離だ。
虚なままの目で彼は私を見据えると、のそりと立ち上がって私の元へと歩いてくる。
「な、何よ」
「風邪ひくぞ。これ着てろ」
「え、あ……」
ソファに置いていた薄手のカーディガンを私に羽織らせると、百之助は私をじっと見つめた。真っ黒な瞳に見つめられると、別れようと決めた心が揺れそうで目を逸らす。
「……さっきのは」
「何よ、弁解でもしに来たの? またヤキモチ妬かせるための小芝居? それとも今度は本当に浮気?」
「違う、話を聞け」
「どっちにしたって、私はもう限界だよ。疲れちゃった。ヤキモチ妬かせて試されるのも、浮気なのかと疑うのも」
「おい、だからあれは」
「結局私ばっかり好きなんだよ。嫌ってくらい私ばっかり。平気でそうやって私の愛情試そうとして、もう疲れちゃった」
「……だから、」
「まあでも隠そうとしてたくらいだもん、もしかして浮気じゃなくてもうあの人の方が本気だったりして」
「話を聞け!」
滅多に大声を出さない百之助が、私の肩を掴んで声を荒げる。びくりと肩が震え、思わず彼の顔を見ると焦りとも怒りとも取れる表情を浮かべて口元を歪ませていた。
「……こんな時間にそんな大声、近所迷惑だよ」
「じゃあ、ちゃんと話を聞け」
「……ん」
本当は聞くのが怖い。だけど、あんな真剣な顔をして私に向き合ってくれる彼を見たら、目を逸らし続けるわけには行かないのだと腹を括った。
意を決して聞いた事の顛末は、びっくりするほど予想外の内容だった。
「えーっと……ちょっと待って。つまりあれは、百之助の持ち物、ということ?」
「俺のものというか、まあ、そうだ。白石たちと買い物に行って、俺が買った、俺用のものだ」
「ん。うん、そっか。うん? 待って、じゃあこの間ちらっと見えた女の人って、つまり……?」
「チッ、やっぱり見えてたのか……そうだ、あれも、俺だ」
「いや、え? だって、え? 一瞬しか見えなかったけど、絶対美少女だと思ったんだけど」
「……」
百之助は、戸惑ったような顔をしながらも自身の髪を撫でつけた。一度シャワーを浴びていつものように上げていない髪ははらりと落ちていく。いや、そんな、ほんのちょっと嬉しそうな顔をされても反応に困るんだけど。
「じゃあ、何? 先輩たちの追いコンで女装する事になって? それの準備を白石くんたちと百之助の家でやってたってこと?」
「まあ、そういうことだ」
「嘘だ、じゃあ証拠見せて。その写真。ねえ」
至極嫌そうな顔をしながら、それでも致し方ないという風に百之助は携帯の画像フォルダを開いて私へと差し出した。
この間は気付かなかったけど、女の人の写真は何枚もあった。杉元くんたちとカフェに行ったという写真のすぐ後に、百之助、白石くん、杉元くん、それぞれが同じウィッグをつけ化粧を施した姿が写真に収められていた。多分カフェに行った前後に買い出しをしてそのまま部屋で写真を撮ったのだろう。
バストアップで撮られているせいで気付かなかったけど、改めてじっくりと見ると肩幅もあるし杉元くんに至っては服がパツパツだし、全然儚げな女性なんかじゃない。
多分そう見えたのは、
「これで納得したか」
「……ふふ、なんだ。浮気じゃなかったんだ」
「まだそんなこと言ってるのか」
「だって、こういう事ならすぐ言ってくれたらよかったのに」
「言えるか。余興とはいえ、女装しますだなんて。お前に」
「なんで。面白そうだし、協力したのに」
すっかり気が抜けて笑ってしまう私に、百之助は不機嫌そうに眉を顰めた。面白がりそうだから言わなかったんだとその表情が物語っている。
格好つけたがりの彼のことだ、私に女装の手伝いなんてさせたくなかったんだろうと種明かしをされた今なら思える。
「それで。なんかいう事はないのか」
「ん……疑って、ごめんなさい」
「さよならはなしでいいな?」
「はい。ごめんなさい」
深々と頭を下げると、百之助は私の腕を掴み自分の方へと引き寄せた。あぐらをかいて座った彼の上に向かい合わせるように座らせられる。
「ったく」
「怒ってる?」
「怒ってる。やっと久しぶりに会えたしこれから抱くぞとシャワー浴びてる間に勝手に消えやがって。しかもさよならの置き手紙にご丁寧に鍵まで添えて」
「ごめん、本当にごめん」
「私ばっかり好き、だ? まったく、よく言うよ」
「ねぇ、機嫌直して」
未だ拗ねたような素振りを見せる彼の頬を両手で包み込んで、私はちゅっと唇にキスを落とした。そもそも百之助の過去の行いのせいなんだけど、とちらりと思ったけれど、それは言わないでおこう。
むすっとした表情を浮かばせてはいるが、その実早く私に触れたそうにそわそわと腰を撫でる彼の手の温もりを感じながら、「ね、ごめん」ともう一度唇を押し当てた。少しだけ彼の纏う空気が柔らかくなったのを感じて、頬を包み込んでいた手を彼の首へと回す。
お互いに、こんなことで機嫌が治るのだから単純だなと笑ってしまう。
近所迷惑にならぬよう、細心の注意を払いながら声を押し殺して夜を過ごして、翌日は二人で昼近くまで眠りこけてまた戯れあって。
「これでもまだ、自分ばっかり好きだなんて思うか?」
「まだ根に持ってる。ごめん、ちゃんと愛されてるって、感じてるよ」
散々私を優しく愛した彼に裸のまま抱き付く。結局のところ私も彼も、お互いの事を嫌ってほど好きで、時に憎たらしくなるくらい愛しているんだ。
改めてそう感じたその週末、もう一度彼の胸へと額を擦り付けた。昨夜とは一変、胸いっぱいの幸せを感じながら。
尾形が儚げな美少女は無理あるのでは?とも思ったけど、一瞬だけ目に入った写真ですから…という言い訳。
初出・2023/04/08