相合傘、右傘に宿るのは

 珍しく朝しっかりと天気予報を確認しておいてよかった、と窓の外を見て思った。先ほどまで綺麗な青で彩られていた空は、いつの間にかどんよりとした雲に覆われている。夕方からの雨予報は、どうやら当たったらしい。
 傘は持ってきているけれど、できるだけ降られたくはない。雨が降り始める前に仕事を片付けて帰ろうとする私を阻むように、定時間近に急ぎの仕事を頼まれて結局私は残業をする事になった。やっとそれらを片付けて退勤する為に社員証のカードキーを翳してフロアから出た頃には、窓に少しずつ水滴がつくようになっていた。
 ああ、降り出してしまったなあと思いながらロッカールームに向かいコートを羽織る。少し前に買ったばかりの淡い水色の傘を手に持ち、出入り口へと向かうと見慣れた姿を見つけ思わず声を掛けた。
「尾形くん。お疲れ様、今終わり?」
「ん? あぁ」
「奇遇だね。私も今から帰るところ。降り始める前に帰りたかったんだけど、間に合わなかったんだ」
「そうか」
 
 黒いコートに身を包んだ尾形くんは、私を一瞥して短く返事をした。同期入社で、新人の頃は一緒に研修を受け割と仲良くなったと思っていた彼だけれど、昨年度部署が変わってからは話す頻度も減っていた。それでも社内でたまに彼を見かける度に胸を高鳴らせていた私は、久しぶりに交わす会話に嬉しくなった。
 残業を頑張った自分へのご褒美かななんて考えながら彼を見ていると、彼の手に傘が握られていないことに気付いた。
「あれ? 尾形くん、もしかして傘持ってない?」
「あぁ、いや」
「方向同じだよね? よかったら駅まで入っていく?」
「……いいのか?」
「うん。尾形くんがよければ」
「じゃあ、頼む」
「うん。どうぞどうぞ」
 自動扉を抜けて外に出ると、小粒の雨が弱々しく地面を濡らしていた。走ればそこまでは濡れないほどだったかもしれないけれど、尾形くんが雨に濡れないために走る姿はあまり想像が出来ない。まあ、相合傘をしている姿もちょっと想像出来なかったけど、断られずに済んでよかったなと思いながら傘を開いた。
 中に彼を招くと、「俺が持つ」と尾形くんが傘の柄を掴む。確かに身長差があるから、彼に持ってもらった方がいいだろうと私はお言葉に甘えさせてもらった。
 
「雨、そんなに強くなくてよかったね」
「そうだな」
「それにしても珍しい。尾形くん、いつも雨の日には傘持ってるイメージがあるのに」
「……あー」
 私の歩幅に合わせてくれているのか、いつもよりもゆったりと歩く尾形くんは、少し考えて口を開いた。
「いつもは折り畳みがあるんだが、何日か前に降った日に乾かそうと干しておいて、そのまま鞄に入れるのを忘れてた」
「あー、あるある。せっかくの折り畳みなのに、入れ忘れちゃうの私も何度かやった事ある」
「ははぁ、お前はやりそうだな」
「尾形くんもやらかしてるんだから人の事バカにしないでくださーい」
 揶揄するように口角を上げた尾形くんを横目に捉えてそんなやりとりをした。そんな時間も久しぶりで、何だか胸がくすぐったかった。
 
 駅まで半分の距離を歩いたところで、雨足が少しずつ強くなってきた。静かに傘を濡らしていただけの雨は大粒となり、ボトボトと傘を叩くように落ちてくる。
「結構降ってきたね」
「そうだな」
「大丈夫? そっち濡れてない?」
「……少し濡れる。お前、もっとこっちに寄れ」
「え? わ……っ!」
 尾形くんの言葉に首を傾げていると、彼は一度傘の柄を持ち替えた後、空いた方の手で私の肩を抱き引き寄せた。思いがけず密着した体に、心臓が早鐘を打つ。お互いの腕がくっついてしまうほど体を寄せながら、互いの体を少しでも濡らすまいと二人で歩いた。
「どんどん強くなるね。予報の感じだと、一瞬強まって後はまた止むみたいだったんだけど」
「そうなのか」
 朝見た天気予報の内容を思い出しながら話すと、赤信号の交差点に差し掛かり足を止めた。止まったついでにスマートフォンを取り出して雨雲レーダーを調べてみると、記憶の通りあと三十分もしない内に雨足は弱まりそうだった。
 隣に立つ彼にも画面を見せ「ほらね」と伝えると、彼は「そうか」と呟く。そのまま少し何かを考えていた尾形くんは、信号が青になっても歩き出さないので「どうしたの?」と顔を覗き込んだ。
「それなら、あと少し時間を潰さないか」
「え?」
「あと三十分ほどで弱まるんだろう?」
「そうみたいだけど」
「一人ならいいが、女物の傘に二人で入って歩いていくにはこの雨は強すぎるとは思わんか」
 彼の言い分に確かにと頷く。ちょうど信号を渡った先には有名なコーヒーチェーンのお店があるのを視認して、「じゃああそこで雨宿りしようか」と指差した。
 
 びしょ濡れになった傘を閉じて店に入ると、同じように雨宿りで入ったであろう人たちで店内は賑わっていた。ぐるりと見渡した感じ同じ社内の人間はいないようで何となく安心する。女性社員からの人気も高い尾形くんと、相合傘をした上二人でカフェに寄り道なんて社内の人に知られたら、ちょっと面倒な事になりそうだ。
 そんな私の考えなんて知らぬ尾形くんは早々とカウンターに向かい自身の飲み物を頼む。彼の会計が終わってから自分のものを頼もうとのんびり構えていると、彼が振り向いて「お前は何にするんだ、早く選べ」と急かされた。
「え、あ、じゃあ、ホットカフェラテで」
 そう伝えると彼は私の分まで会計を済ます。受け取り口で「いいの?」と尋ねると、「傘のお礼だ」と彼は言った。二人分のカップを受け取り空いている席に座った。
「尾形くん、アイスコーヒーで寒くない?」
「中は空調が効いてる」
「それもそうか。でも尾形くんっていつもホットのイメージ。その割に冷まして飲んでるって感じ」
「……よく知ってるな」
「ん? ……うん、まあ。何となくだけど」
 何気なく言ったけれど、よく彼を見ていた事がバレてしまったようでほんのりと顔に熱が集まっていく。赤くなりそうな頬を誤魔化すように手で仰ぎながら「本当、空調効いてる。私もアイスにすればよかったかな」と笑った。
 
「なんか改めて、久しぶりだねゆっくり話すの」
「そうだな」
「最近はどう? そっち、いつも忙しそうだよね」
「まあ、そうだな。でもお前もよく残業してるだろ」
「うん、まあ。あれ知ってるんだ?」
「たまに見かけるからな」
「えー、声掛けてよ」
 何でもないやり取りをしていると、三十分なんてあっという間だった。大きな窓の外は雨が止んでいたけれど、時間帯のせいで暗くなった空はそれを気付かせるのを遅らせた。思っていたよりも時間が過ぎ、やっと雨が止んだことに気付いた私は慌ててぬるくなったカフェラテを飲み干す。
「いつの間にか雨止んでたね」
「そうだな」
「残業早めに切り上げたのに、すっかり遅くなっちゃった」
「確かにな。時間、大丈夫だったか?」
「うん、それは大丈夫。尾形くんこそ大丈夫だった?」
「俺はこの時間でもかなり早い方だからな」
「うわぁ、そうなんだ。いつもお疲れ様」
 空いたカップを持って席を立とうとすると、尾形くんがひょいとそれを奪った。「片付けてくる」という彼に素直にお礼を述べ、コートを羽織る。食器の返却口から戻ってくる彼のために席に置かれたままの彼の鞄を渡そうと持ち上げると、違和感を覚えた。
「……あれ」
 ほんの少しだけ開かれた鞄のファスナーから一瞬だけ見えたそれは、先ほど彼が忘れたと言っていた折り畳み傘。……だった気がする。もしかしたら、気のせいかもしれないけれど。
 頭の中に疑問符が浮かんだまま、尾形くんに鞄を渡してカフェを後にする。雨上がりだと言うのにうっすらと姿を覗かせた三日月を見上げていると、隣に立った彼が「あんな雨の後でも一応月は見えるもんなんだな」とボソリと呟いた。
「今、同じようなこと考えてた」
「だろうな」
「えっ?」
「そんな顔して見上げてた」
「うそ、そんなわかりやすい顔してた?」
「ああ」
 くつくつと笑う彼にまた顔が赤くなる。駅へと再び歩き出す彼をゆっくりと追いながら、私は彼に声をかけた。
「……ねぇ、尾形くん」
「ん?」
 ――もしかして本当は折り畳み傘持ってたの? ……そう聞きたかったけれど、振り向いた彼の黒い瞳に見つめられると、その言葉は喉の奥で引っかかって出てこなかった。
「いや、あの……」
「なんだ」
「……お腹、空かない?」
「あ?」
 代わりに飛び出たその言葉に、尾形くんは眉を顰めて固まる。
「あ、いや遅くなっちゃったから、ついでにご飯食べに行かないかなーって」
「……いいぞ」
「いや突然だよね、ごめん……え、いいの?」
「いいぞ。ただし、飯までは奢らんからな」
「もちろん、割り勘だよ!」
 慌ててそう言うと、彼は空に浮かぶ三日月のようにゆるりと口角を上げた。隣を歩く彼は表情があまり変わらず少しわかりづらいけれど、それでもこの時間を楽しんでくれているようだとは伝わって嬉しくなる。
 
 それじゃあどこに入ろうかと二人で話していると、背後から声を掛けられた。
「あれぇ? 百之助じゃん。ナマエも。お疲れ、何してんの?」
「宇佐美くん、お疲れ」
 人の良さそうな顔で話しかけてきたのはもう一人の同期の宇佐美くんだった。確か尾形くんと宇佐美くんは同じ部署に今はいるはずだけど、彼も残業だったのだろうか。ちらりと尾形くんの方を見ると、面倒くさそうな顔をしてそっぽを向いていた。
「で? 二人で何してんの? まさかデート?」
「でっ!? 違うよ! 尾形くんが傘忘れたらしいから途中まで一緒に帰ってたんだけど、雨が強くなったから近くのカフェで雨宿りしてたの」
「……フゥン?」
 面白いことを聞いたという風に宇佐美くんは口角を上げる。彼の両頬の黒子が左右対称に動くのを見ていると、隣で小さく「チッ」という舌打ちが聞こえた。私、何かまずい事を言ってしまったんだろうか。
「百之助ぇ? 今日も折り畳みあるけど僕には貸さないって置いて行ったの、誰だっけぇ?」
「……何のことだか?」
 素知らぬ顔をしてとぼけているけど、ほんの少しだけ尾形くんの目は泳いでいた。やっぱり、さっきのは見間違いではなかったらしい。だとすれば、どうして折り畳みを使わずに忘れた素振りを見せたのだろう。もしかして私と相合傘をしたかったから? なんて自惚れたことをうっかり考えてしまって、慌てて小さく首を振った。そんな訳がないのに。
「はーぁ、まあいいけどさ。で? これから二人は帰るとこ?」
「あ、えーっとお腹空いたからご飯でも行こうかなって……よければ宇佐美くんも行く?」
「……フゥーン? せっかくのお誘いだけど、僕はやめておこうかな」
 面白そうだけど、どっかの誰かさんの睨みが凄いからね、なんて宇佐美くんは言ってひらりと手を振ったかと思えば颯爽とその場を去っていった。
 お互い無言のまま、何となく気まずい空気が流れる。その空気に耐えきれず、私は悩んだ末に口を開いた。
「……傘、あったの?」
「……」
「なんで忘れたなんて言ったの?」
「……迷惑かけたな」
 私の問いに対して目を逸らしたままそう答える彼。うぅん、全然会話が噛み合ってない。
「迷惑とは思ってないけど、何でかなぁって」
「……」
「私と相合傘したかったの? なんて思っちゃった」
 もちろん違うんだろうけど、と続けると尾形くんは「そうだ」とぽつりと呟いた。視線を合わせないまま髪を撫で付ける彼を、ポカンと私は眺めてしまった。あまりにも、意外な返答だったから。
「……何それ」
「飯、どこに行く。それとももう帰るか」
「いやいや、この流れで帰りませんけど」
「じゃあどこに行くか決めろ、腹が減った」
「ねぇちょっと話逸らすのやめてよ」
「あそこの居酒屋でいいか」
「ちょっと、尾形くんってば!?」
 のらりくらりと私からの問いかけをかわす彼を追いかけながら、私はなおも疑問をぶつける。結局はぐらかされ続けたけれど、お酒を飲み交わしながら上機嫌で私を眺める彼の顔を見たら、もしかしたら自惚れてもいいのかもしれないな、なんて思った。決定的なことは何も言われなかったけれど、「また週末にでも飯に行かないか」という言葉と別れ際に繋がれた手はそういう事だと思いたい。
 尾形くんと別れ一人になった後、水溜りを避けるように歩きながら家へと帰った。たまには雨にも降られてみるもんだな、と思いながら足が弾んでいたのは、誰にも秘密だ。

金カ夢書いたのだ〜れ?という企画に参加させていただいた作品です。
「雨×尾形」というテーマ縛りで七人の夢書きがどれを書いたか伏せて作者を当ててもらうゲーム企画でした。とても楽しかったです!
初出・2023/05/03