あの夏の日
愛したこともないくせに。震える声でそう言うと、私の前に座る色白の男たちは一方は眉を顰め、もう一方は反対に愉快そうに口角を上げた。
「なんだと?」
眉を顰めた方の男、尾形は不愉快そうに聞き返した。その隣で、宇佐美がニヤニヤとしながら私と尾形を交互に見やる。
「ちゃんと一人の人を、愛したこともないくせに。私の恋愛に口出してこないでよ」
「何が恋愛だ。恋愛〝ごっこ〟の間違いじゃないのか。すぐに付き合っては別れてを繰り返して」
「私はちゃんと一人の人と決めて付き合ってる。見る度違う女の子連れてる尾形とは違うもの」
言い合う私たちをよそに、宇佐美は先ほど頼んだアイスコーヒーの氷をストローでくるくるとかき混ぜている。なんでこんな事になっているんだろう。私はただいつものように、今回もうまくいかなかった恋愛の話を聞いてもらいたくて、校内で見かけた宇佐美を誘いカフェテリアに来たはずなのに。
目の前に座る不機嫌そうな尾形はなおも何か言いたそうに、だけど言葉を探すようにしながら目を伏せた。
どうして尾形がそんな顔するの。私の彼氏になる気もないくせに、偉そうに私の恋愛に口を出してこないでよ。喉から出てきそうになる言葉を、カフェラテでグッと流し込む。
尾形は、中学も高校も一緒で、学部は違えど大学も一緒という、いわば腐れ縁というやつである。
そして、私の初めての男だった。
家も近所で中学時代は委員会が一緒だった私たちは、なんとなく仲良くなって、なんとなく一緒にいる時間が長くなって、気が付けば私は尾形のことが好きになっていた。高校生になっても、私たちの仲は変わらなかった。
高校二年生の夏だった。毎年夏休みの終わり頃、私は尾形に課題の追い込みを手伝ってと頼んでいた。その年も、アイスやお菓子を手土産に尾形の家に上がり込んで、時に勉強を教わりつつ課題を片付けていた。
どうしてそうなったのか――確か休憩と称してつけたテレビで、たまたま流れていた再放送のドラマがラブシーンだったからのように思う――二人の間に流れる空気が変わった。不意に触れた指先が絡み合って、それから次に唇が重なった。エアコンが効いていないのではないかと思うくらい熱くなった体で、私は尾形と一つになった。
くらくらとした頭の中に焼き付いたのは、私と違って余裕そうな尾形の顔と、やけに慣れた手付きで避妊具を取り出した姿。ズキズキと痛む下半身とはまた違った痛みが、チリチリと胸に走ったのを覚えている。
彼のおばあさんが帰ってきた音が聞こえて、私は慌てて衣類を整えて彼の家を飛び出した。来週から始まる新学期に、どんな顔して尾形に会えばいいのだろうと思いながら。
だけどそれからも、私たちの関係が友達から恋人に変わることはなかった。尾形はいつも通りだった。きっと尾形はこういう事に慣れていて、私を抱いたこともなんてことなかったのだろう。それがショックで、しばらくは彼の顔を見ることが出来なかった。
その内尾形が他のクラスの女の子に告白されたという話を耳にして、私も同じ頃違う男の子に告白されて付き合うことになって、自然と私たちの距離は離れていった。三年生になってクラスも離れ、このまま私たちの関係は終わってしまうのだと思った。
だというのに、大学へ進学してみれば尾形はそこにいた。約一年半もの空白なんてなかったかのように、平然と彼は私に挨拶をしてきたものだから怒りを通り越して呆れてしまう。
尾形は見かけるたびに、いつも違う女の子と一緒に歩いていた。私は私で、尾形のことなんてもう気にしないようにしようと別の男の子と付き合った。だけど、高校の時に出来た彼氏も大学に入って出会った彼氏も、すぐにダメになってしまった。キスまではなんとかなるのに、それより先に進みそうになると尾形とのあの日を思い出して体が拒絶してしまうのだ。
今回も、同じ事の繰り返しだった。今までの彼氏の中では最長記録だったのだ。このままきっとこの人の事を好きになれると思ったけれど、ダメだった。そんな話を宇佐美にしているところで、尾形が私たちの座る席へと現れた。自分がずれたらいいのに、わざわざ宇佐美を横に移動させ私の前に座った彼は、「毎回毎回、そんな幼稚な恋愛ごっこをしてご苦労さまだな」と鼻で笑った。急に何を、と思う私に尾形はチクチクと私の恋愛事情に嫌味を並べ立てる。
そうしてカチンときた私から出たのが、「愛したこともないくせに」という言葉だった。
「私は尾形に話そうと思ってたわけじゃないの。なのに勝手に聞き耳立てておいて、その上説教じみた事言わないでくれる?」
「お前の声がでかいから聞こえてきたんだろ」
「そんなに大きな声で話してない」
「いやー今はでかいと思うけどね?」
「ちょっと宇佐美は黙ってて」
はいはいと返事をして宇佐美は、頬づえをつきながらアイスコーヒーを啜った。
「だいたい自分は女の子取っ替え引っ替えしておいて、私によくそんな事言えるよね」
「さっきから聞いてれば……いつ俺が取っ替え引っ替えなんかした」
「いつも違う女の子連れてるじゃん。遊び人」
「勝手に付き纏われてるだけだ」
「どうだか。うちの学科の**さんも、尾形と寝たって話聞いたけど?」
先日耳にした噂を口にすれば、尾形は「はぁ?」と低い声を出して持っていたグラスを力強く置いた。ダンッという音の後に、尾形の声が響き渡る。
「俺はお前以外の女を抱いたことなんかねぇぞ」
「……え」
言葉の意味がわからず固まっていると、今度はアイスコーヒーを飲み干していた宇佐美がストローから口を離し「はぁ~?」と気の抜けた声を出した。
「え、何お前ら、もうヤる事ヤってんのかよ」
「ヤっ!? ち、ちが……わない、けど」
「ウケる。処女と童貞がお互い拗らせてると思ってたのに」
「え、えぇ?」
「お前なぁ……」
宇佐美の発言に目を白黒させる私と、眉間の皺を深くする尾形。そんな私たちなんて気にも止めずに宇佐美は続ける。
「だってさぁ、彼氏作る割にお前はいい雰囲気になると拒否ってフラれるし、それなりにモテる割に百之助は女に触られるの極端に嫌うし。そのくせお互いまた百之助が違う女連れてるだの、お前に新しい彼氏が出来ただの気にし合って僕に言ってくるし」
「……」
「最初は面白がってたけど、そろそろちょっと面倒なんだよね~。だから、後は二人でやってくんない?」
「いや、ちょっ」
「あ、あと場所変えた方がいいと思うよ。それじゃ、僕この後用事あるから。また来週~」
そう言って宇佐美が席を立って、やっと我に返った私はここが学内のカフェテリアで、少ないとはいえ周囲に人がいる事を思い出した。カッと熱くなる顔を伏せ席を立つと、尾形が私の腕を掴んだ。
「待て、話はまだ終わってない」
「わかってる、わかってるけど! とりあえずここから離れて話したい!」
そう言うと尾形は荷物を手に取り、私の腕を引きながら歩き出した。
「ちょ、ちょっと、どこ行くの」
「俺の家」
「えっ」
「今日はばあちゃんもいない。誰にも邪魔されずに話せる」
「で、でも」
「なんだ」
こちらも見ずに歩いていた尾形が、立ち止まって私を見る。あの時と違って余裕のなさそうな尾形の顔が、また私の胸を痛くさせた。
「さっきの話、本当なの。私だけって」
「あぁ」
「……尾形って、私のこと」
「続きは俺の家で話すぞ。この日差しの中で話をするつもりはない」
「……ん」
外に出てほんの数分なのに汗が滲むような暑さの中で、小さく頷いた私を見て尾形はやっと私の腕を離した。代わりに私は、尾形の手のひらをそっと掴む。
「あの日も、これくらい暑かったよね」
「そうだったか」
「そうだったよ」
あの日がいつの事を指しているか、すぐにわかってくれた尾形に頬が緩む。あの日から止まっていた私たちの時間が、少しずつ動き出す気がする。あの日と同じくらいの暑さの、大学二年生の夏。同じように彼の家へ行って、そうしてこれまでの答え合わせを二人でしよう。
あの日の二人を、また一から始めよう。
こういう体から先行のお話書きがちだな〜……
初出・2023/07/27