終わらないが始まる
終わってしまった恋よりも、始まらなかった恋の方が未練って残るんじゃないかと思う。
だって、目を閉じて昨夜の事を思い出そうとした時に、私を追い縋った恋人の姿より先に、何年かぶりに再会した初恋の人の姿が浮かんでくるのだから。
気だるい瞼をそのまま閉じていたいけれど、朝を告げるアラームが小さく鳴り響くから、私は観念してそれを止めて目を開いた。
体を起こして、殺風景なシングルルームの部屋を見渡す。急遽確保したホテルは、安く泊まれて眠れさえすればどうでもいいと思っていたけれど、値段の割に寝心地は悪くなかった。
朝食のサービスもついていたが、精神的なものなのか食欲は湧かなかった。お酒が残るほどには昨夜は飲んでないはずなのにと失笑し、のろのろと体を動かしチェックアウトするために身支度を整える。
衝動的に家を出てきたけれど、これからどうしたものかと考えていると、スマホが震えた。昨夜から何度も連絡が入っている恋人の名前とは別のものが表示されているのを見て、心臓が小さく跳ねる。
尾形百之助。
先ほども思い浮かべていた、初恋の人からのメッセージ。
『今夜までこっちにいるんだが、よかったら飯でも食べないか』
短くふた文字の返事をして、私はホテルの部屋を後にした。
昨夜は、同窓会だった。小規模で定期的に開かれているのは知っていたが、いつもタイミングが合わなくて不参加にしていた飲み会。その会に珍しく参加を決めたのは、参加予定者の中に彼の名前が入っていたからだった。
彼――尾形百之助くんは、小学校の同級生だった。
小学生の頃、男の子は背が高かったり走るのが早かったり勉強が出来たりするだけで非常にモテるものだ。尾形くんは、そのどれにも当てはまらなかった。平均よりは少し上、くらいだったと思う。だけど、小学生のころから私はずっと、彼の醸し出す雰囲気が気になって仕方がなかった。いつもふとした拍子に彼のことを目で追っている事に気づいたのは小学五年生の頃だった。
一部のクラスメイト達は、あの子達が両思いだとか付き合っているだとかという話で盛り上がっていたが、私にはそういうものはよくわからなかった。尾形くんとどうにかなる未来は想像出来なかった。ただ、彼の姿を日々探し、たまに話すことがあれば大事にその会話を反芻させていた。
そんな日々に終わりを告げたのは、小学六年生の冬だった。両親が離婚することになり、私は卒業と同時に隣の市へと引っ越すことが決まった。仲の良かった両親だったが、数年前からなんとなくギクシャクとした空気が流れていることは子供ながらに感じていた。だから、その話を聞いた時には少しだけショックを受けつつも、すんなりと納得することが出来たように思う。
仲の良い同級生たちとも共に進学出来ない事を悟った私は、不意に尾形くんのことを思い浮かべた。今まで、彼とどうにかなりたいと思ったことは一度もない。だけど、せめてあなたに好意を持っていた女の子がいた事を知って欲しいという気持ちで、私はバレンタインの日にチョコレートを彼に贈った。溶かして固めただけの、不恰好なハート型のチョコレート。恥ずかしてくて自分の名前を書けないまま「オガタくんへ ずっと前から好きでした」というメッセージカードを添えて彼の机の中にこっそりと押し込んだ。今思えば、不気味だっただろうなと反省する。
差出人の名前を書いていないから、送り主が誰だかわからなかったはずなのに。卒業式を数日後に控えたホワイトデーの日、私の机の中には「ありがとう」とだけ書かれたメッセージとキャンディがたくさん入った袋が入っていて、私は嬉しくて家に持ち帰っても何度もそれを眺めていた。
だけど、それだけだ。
両親の離婚の件で、私はどんなに仲の良い関係でも、いつかは終わりが来てしまうことを知ってしまった。何かが始まれば終わりが来てしまうのだ。私は尾形くんと、いつか終わってしまう関係を始めてしまうのが怖かった。
あの頃はまだ小学生で携帯電話を持つことが珍しい時代だった。気軽に連絡を取れる手段のない私たちは、ただそのやりとりをしただけで特に何か会話を交わすこともないまま卒業式を迎え、そして私は転校していった。
中学に進学しても、心のどこかに尾形くんがいた。周りの子達と恋の話になっても、思い出すのは尾形くんだった。高校一年生になって、初めて他に気になる人が出来た。その人から告白されて付き合ったけれど、ふとした拍子に尾形くんの事を考えてしまう私がいた。結局半年と続かず終わりがきて、やっぱり何かが始まれば終わりは来るのだと、私はそれから恋愛に臆病になったまま大人になった。
一度だけ、友人の付き合いで行った大学のオープンキャンパスで尾形くんを見かけた。約六年ぶりに見かけたその姿はかつてのものとは違ったけれど、醸し出す雰囲気は変わっていなかった。離れた場所から目が合うと、向こうも私に気付いたようで小さく会釈をしてくれた。同じ学校へ入学したらまた毎日会えるだろうかとほのかな期待を抱いたが、すでに専門学校へ進学を決めていた私には叶わぬ夢だった。
それ以来、尾形くんとは会っていない。
ガヤガヤと賑わう居酒屋で、私は一人薄くなってしまったウーロンハイのグラスを傾けていた。仲の良い友人数名とはSNSなどで連絡を取り合っていたものの、ほとんどは久しぶりに会うメンツだった。中学も同じで定期的に飲み会を行なってきた彼女たちと私とでは、その間に目に見えない透明な壁があるようで、どこか会話はぎこちなかった。
仲の良い友人が別のテーブルへと移動してしまえば、さらにその壁は厚くなったように感じた。居た堪れなくなってきた私は、トイレへと席を立った。座敷の部屋を出る間際、端の方に座り一人でビールを煽る尾形くんの姿が目に入る。数年ぶりに捉えたその姿は、やっぱり惹かれてしまう雰囲気があった。
用を足し戻ると、尾形くんは私とは入れ違いで靴を履きどこかへ行こうとしていた。何も言わずすれ違うのも、と思い「お手洗い? それならあっちだったよ」と勇気を出して声を掛けた。
「……赤いぞ」
「え?」
「顔。少し酔ってるんじゃないか?」
「そ、そうかな……? 大勢での飲み会は久しぶりだから、雰囲気に酔ったのかな」
先ほどトイレで鏡を見た時には気付かなかったが、そう言われてしまうほどに赤いのだろうか。思わず指先で頬に触れると、確かに熱を持っている。だがそれは、酔いというよりも彼と話しているという高揚感からくるもののように感じた。それに気付いた瞬間、またカァッと顔が熱くなるのを感じ、誤魔化すように下を向いて座敷へと戻ろうとする。だけど、尾形くんに腕を掴まれそれは叶わなかった。
「お、尾形くん?」
「やっぱり赤い。外の空気に当たれば少しは良いんじゃないか」
「え、あ」
突然の出来事に私はどうすることもできないまま、店の外へと連れ出された。かと思えば、尾形くんはポケットから煙草を取り出しそれに火をつける。そうか、彼はそのために席を立ったのかと思いながらぼんやりと眺めていると「そっちだと煙が行くから、こっち側に来た方がいいぞ」と風上である彼の隣へ誘導された。
「尾形くん、煙草吸うんだね」
「普段はそうでもないが、酒飲んでるとな。煙大丈夫か」
「あ、うん……外の風、気持ちいいね。確かにこれなら酔いも落ち着くかも」
「まあ、さっきのは口実だがな。そんなには酔ってないだろ」
「えっ」
「お前、そんなに飲んでないだろ。まあ元々弱いのなら知らんが」
実際、お酒はほとんど飲んでいない。乾杯の為に小さなグラスに注がれたビールを飲んだ後ウーロンハイを頼んでそれをずっとチビチビと飲んでいた。だけど、そんなの近くで話していた子でさえ気付いていないと思ったのに。
「よく、わかったね」
「……まあな」
それだけポツリと言った尾形くんは、煙草を咥えて深く煙を吐いた。藍色の空にゆらゆらと彷徨う煙には、彼の言葉が包まれていてどこかへ消えていくようだった。
「久しぶりだな」
「そうだね。卒業以来だから、十年以上とかになる?」
「……一度だけ、会っただろ。昔、**大学で」
「えっ……覚えてたんだ」
「そりゃな」
多分彼は、数年前のオープンキャンパスで見かけた時の事を言ってるのだろう。会ったと言ってもほんの一瞬すれ違っただけで、挨拶さえしていないのに。それでも、覚えてくれていた事にじわじわと胸が温かくなった。
「あの後、**大学に行ったのか」
「ううん、あの時は友達の付き添いだったの。私は結局専門学校に行ったから。尾形くんは?」
「俺は県外に出てそのまま就職した」
「じゃあ、今日は久しぶりの帰省?」
「まあ、そうなるな」
彼の煙草が短くなって、店先に置かれた錆びた灰皿に押し付けられた。もう戻ってしまうだろうか、煙草一本分の二人の時間は終わってしまうのだろうか。そう思って指先を眺めていると、尾形くんは「もう一本、吸っていいか」と火をつけた。もし彼も同じことを考えていたなら、嬉しい。
「お前は今もこの辺に住んでるのか」
「うん。ここから電車ですぐの距離」
「そうか」
それからも煙草一本分の時間、二人で話をした。今仕事は何をしているかとか、卒業後も同級生たちと連絡を取っていたかとか、そんな他愛もない話。古びた赤い箱に小さくなった煙草を落とすと、尾形くんはスマホを取り出して私へと差し出した。
「連絡先、聞いてもいいか」
「もちろん! ……あ、でもバッグに入れたまま置いてきちゃってる」
「ああ、そうか」
急に自分が連れ出したことを思い出したらしい彼は、バツが悪そうな顔をして髪を撫で上げた。
「戻ろうか」
「そうだな」
店の中に入ると、尾形くんはついでにトイレに行くと言って去っていった。先に座敷に戻ったけれど、誰も私たち二人が抜けている事に気付いていないようだった。先ほどまで座っていた場所へ行きバッグの中からスマホを取り出すと、一件のメッセージが入っていた。
『楽しんでる? 遅くなってもいいけど、心配だから帰ってくる時には連絡してね』
恋人から届いたその言葉に、先ほどまでの高揚感がスッと冷めていった。
両親の離婚をきっかけに恋愛に臆病になった私だったが、専門学生時代の終盤で恋人が出来た。同じアルバイト先でシフトが被ることが多かった彼とは長い間友人関係が続き、告白をされそのまま付き合った。強くときめく気持ちはなかったけれど、そばにいるとホッとするような安心感のある人だった。この人となら、いつか来る終わりに怯えないまま過ごせるかもしれないと思った。そして卒業後三年経ってもその感覚のまま、結婚も視野に入れて一緒に住んでいる。
そんな彼がいるのにこんな風に浮かれている自分自身が、ひどい裏切り者であるように感じた。
尾形くんが座敷に戻ってくる。だけど私は彼の顔を真っ直ぐ見る事ができず、誤魔化すように他の友人に話しかける事しかできなかった。
結局少し離れた位置でそれぞれ時間を過ごし、あっという間に会はお開きとなった。
二次会するけど行く人、と幹事の子が声をかけている。恋人には遅くなると伝えてきた、だけど、どうにも気分が乗らなくてこのまま帰ろうと思っていた時だった。
「お前は、帰るのか」
「あ……うん」
「そうか、じゃあ俺も帰る。駅まで送っていく」
不意に現れた尾形くんにそう言われ、そっと集団の中から外れていく。それを目ざとく見つけた友人が、私の肩を叩いた。
「えぇ? 帰っちゃうの? 今日は遅くまでいれるって言ってたのに」
「うん、そうなんだけど……こういう会久しぶりだったから、ちょっと疲れちゃって」
「久しぶりだからこそいて欲しいのに〜! それとも彼氏になんか言われた?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど……」
私たちの会話を聞いた尾形くんの眉が、ぴくりとわずかに動いた。その様子に気付いたのか気付いていないのか、友人は彼の方をチラリと見て続ける。
「二人で帰るの?」
「や、そういうんじゃ……」
「俺は駅前に宿取ってるんでな。電車で帰ると言っていたから、同じ方面なら送ろうと思っていただけだ」
「ふーん。この子、付き合って長い彼氏いるんだから変な気起こさないでね」
「ちょ、ちょっと」
引っ越してからも連絡を取り続けていた数少ない友人は、私が恋人をあまり作ってこなかったことも、今はそうではない事も知っている。だからこその牽制だったのかもしれない。
だけど彼女は知らないのだ。私の初恋が彼であった事も、変な気を起こさないように自分自身を叱りつけているのが、私の方だという事も。
未だ納得していなさそうな友人を宥めて、私たちは駅の方へと歩き出した。週末の夜。色とりどりの看板が立ち並ぶ中、私たちは無言のまま並んで歩いた。
二組ほど恋人と思われる男女二人組とすれ違った後、ポツリと尾形くんは言った。
「彼氏、いるんだな」
「あ……うん」
「そうか。そうだよな」
「……尾形くん、は?」
聞かなければいいのに、そう思っていながら聞き返した私をチラリと尾形くんは見て「
「今は、かあ。尾形くん、モテそうだからたくさん恋愛してきたんじゃない?」
「さあな」
「あ、誤魔化してる」
「……人並み程度には、彼女がいたことはある方だと思う」
「……そっかぁ、そうだろうね」
自分で聞いたくせに、予想していた通りの返事に胸がジクジクと痛んでいく。私には、現在進行形で恋人がいるというのに。おかしな話だ。
俯いて歩く私の横で、尾形くんは立ち止まる。不思議に思って私も足を止めて彼の顔を見ると、大きな黒い目が真っ直ぐに私を見つめていた。
「だけど、ずっと忘れられない奴がいた」
「え……」
「他の女に好きだと言われて付き合っても、そいつが俺の事を見ていた視線が、どうしたってこびりついて忘れられなかった」
それって、と問いたいのに、喉がきゅっと締まってうまく呼吸が出来なかった。何も言葉を発さない私を見て、尾形くんは自身の髪を撫で付ける。
「あの時のチョコレート、嬉しかった」
「……どうして、私だってわかったの?」
「いつもお前が、お前だけが俺を見てくれたから」
気付かれていたのだ。あの頃、私がいつも尾形くんを目で追っていたのも、尾形くんへの想いも、全部。その上で彼は、私のことを忘れられなかったと、きっと伝えてくれているのだ。嬉しさと恥ずかしさで、頭から湯気が出ているんじゃないかと思うくらいに、自分の顔が熱くなってるのがわかる。
心臓が誰かに掴まれたように痛む。だけど、その痛みはどこか甘くて、心臓から脳へと走っていく。初恋というのは恐ろしい。何年経っても、こんなにも簡単に心を乱していくのだから。
「もう少しだけでいい、この後一緒にいられないか」
彼の言葉に、ぐらりと心が揺らぐ。言葉通り、後ほんの少し一緒に過ごすだけ、それだけかもしれない。だけど、そうじゃない可能性だって十分にあった。
頷いてしまいたい気持ちをグッと堪えて俯く。ここで彼に手を伸ばせば、終わってしまうと思った。尾形くんとの初恋の思い出も、彼との関係も、恋人との未来も。何もかもが変わってしまう気がして、それが怖くて私は静かに首を横に振った。
「ごめんね。恋人が、家で待ってる、から」
絞り出すように伝えた言葉は、もしかすると少し震えていたかもしれない。尾形くんの顔は見れなかった。小さく「そうか……そうだよな」と呟いた声が、残念そうなのにどこか安心を孕んだように聞こえたのは、私の気のせいなのだろうか。
「……電車、時間大丈夫か」
「うん。でも、そろそろ行かなくちゃ」
「連絡先くらいなら、交換してもいいか。それとも、今も取り出せない場所にあるか?」
先ほど店先で行ったやり取りを冗談めかして言う尾形くんに、私は力なく笑って「すぐここにあるよ」とスマホを差し出した。ほんの少し罪悪感が顔を出したけれど、他の友人たちとも何人か連絡先を交換したし、これくらいならという気持ちがあった。
尾形くんもスマホを取り出すと、QRコードを映し出した画面が差し出された。それを読み取ってすぐにスタンプを一つだけ送る。彼はそれを確認すると、またゆっくりと駅へと向かって歩き出した。
飲み屋が立ち並ぶ道で、ガヤガヤとした喧騒の中、私たちは静かに歩いていた。先ほどは心地よく感じた夜の風が、ざらりと頬を撫でるように感じる。
沈黙のまま駅へと到着した。これが最後になるかもしれないと思い、私は彼の姿を目に焼き付けるように見つめて、口を開いた。
「私ね、ずっと同窓会とか、参加してこなかったの。今日も本当はちょっと迷ったんだけど……来てよかった。尾形くんに会えて、話せてよかった」
「あぁ」
「送ってくれて、ありがとう。……それじゃあね」
尾形くんはまた短く「あぁ」とだけ返す。これ以上向かい合っていると涙が溢れてしまいそうで、私は振り返ることもせずに改札へと向かった。
電車に乗り込んですぐ、尾形くんからメッセージが届いた。『さっきは、急に悪かった』それだけのメッセージを見ながら、ひどく泣きたい気持ちになる。『ううん。私こそ』そう返して、窓の外を眺めていた。三駅分揺られている間に、私の心の揺らめきがおさまってくれないかとスマホを握りしめながら願った。
そういえば恋人にメッセージを送っていないと気付いたのは、電車を降りてもうマンションが見えてからだった。夜道は危ないからといつも口を酸っぱくしている恋人に怒られるだろか。チラリとも恋人への連絡を頭を過らなかった自分にまた罪悪感を覚えながら、そっと鍵を開けて部屋へと入った。時刻はもうすぐで23時を回ろうとしている。思ったよりは早い帰りとなったが、明日も仕事と言っていた彼はもう寝ているかもしれない。静かに扉を閉め靴を脱ぐと、見知らぬ女物の靴が目に入った。
心臓が誰かに掴まれる。だけど、先ほどの感覚とは全く違うような痛みだった。
極力音を立てないようにしながら寝室へと近づくと、ギシギシと言う音と知らない女の声がした。その合間には聞き慣れた恋人の声がする。
「んっ……ちょっと、まだするの?」「いいだろ、あいつからまだ連絡ないし」「でも、流石に帰ってくるんじゃない?」「ちゃんと連絡してから帰ってくるんだって、あいつ」「あ、待って、っんもう」
吐き気を催しながら思ったのは、知らない女への怒りでも恋人への嫌悪感でもなかった。
ああ、こんな事ならあの時尾形くんの言葉に頷いておけばよかった。そんな事を考えている自分に、吐き気を覚えていた。
それから私は、勢いよく扉を開けた。慌てた二人は何か言い訳をしながら服をかき集めていたがどうでもよかった。やっぱりどんな関係でも終わりが来るのだなと、私は改めて実感していた。
寝室に備え付けられていたクローゼットから大きめのバッグを取り出し、数日分の着替えを詰め込んで洗面台へ向かってトラベル用のポーチをバッグに放り込んだ。恋人は私の行動を見ながらなおも言い訳を繰り返し「落ち着いてくれ」と言っていたが、私の頭はひどく落ち着いていた。
「あなたの方が落ち着けば? とりあえず、引き続きどうぞ楽しんで」
自分でもびっくりするほどに冷たい声だった。私の様子に狼狽えた恋人を無視して、私は家を出た。せっかく電車で間に合う時間に帰って来たと言うのに、タクシーを呼んで少し離れた場所まで走ってもらった。何軒かビジネスホテルやネットカフェが並ぶ駅前まで向かう間に、スマホで空室ありのホテルを探していると、数十件を越える着信が恋人――もはやもう元恋人と呼びたい――から入る。それを全て無視しながら、値段もそう高くないホテルの空きを確認して電話をかけ予約を入れた。遅い時間だと言うのに、すんなりと予約を通してくれたホテルに感謝しかない。
タクシーの運転手は無口な初老の男性だったが、整えた化粧と服装に似合わない荷物と剣幕の私に「何があったかは知らないけど、寝るところが無事見つかったようでよかったね」とだけ言って私をホテル前に降ろした。
チェックインを済ませ、渡されたカードキーへシングルルームへと入って荷物を置く。未だ鳴り止まない恋人からの連絡に、スマホの電源を切ろうかと思ったが、一つだけ尾形くんから届いていた『ちゃんと帰れたか』というメッセージを見つけ、返事を打つ。
『帰ったけど、色々あって家を飛び出してきちゃった』
そう送って一分と経たないうちに電話が鳴った。その相手が尾形くんだという事を確認して、電話を取る。
「もしもし?」
「何かあったのか」
「うん、ちょっとね」
「今どこだ」
「駅前のホテル探してチェックインしたところ。空きがあって助かっちゃった」
「そうか」
短い相槌。だけど、その間にも言葉を選んでいるような空気を電話越しに感じ取り、私は小さく笑った。
「あ、帰りが遅くなって怒られたとかじゃないからね」
「そうか」
「気にかけてくれて、ありがとう」
「……あぁ」
それから少しの沈黙が流れた後、もう一度ありがとうと伝えておやすみなさいと電話を切った。このまま話していたら、尾形くんに今でも好きですと伝えてしまいそうだった。つい数時間前までは恋人への罪悪感から目を背けていたけれど、もうそれもなくなってしまった。強い愛ではなかったけれど、静かに流れていた彼への情も先ほどの一瞬で全て消え去ってしまったから。
だけど。だからと言って、やっぱり私は尾形くんとこれからどうにかなりたいなんて、考えられなかった。尾形くんだけは、私の中で特別なのだ。もしいつか終わってしまう関係になるくらいなら、何も始めないままの方がいい。それでいいのだと自分に言い聞かせながら、その夜私は眠りについた。
ホテルをチェックアウトした後、尾形くんから『どこのホテルだ?』と連絡が来たのでホテル名を送った。少しすると迎えに来てくれるらしい。てっきり彼も電車を使って帰省していると思ったけれど、車で来ていたようだった。下に併設されたカフェでコーヒーを飲みながら、今夜はどうしようとぼんやりと考える。勢いで家を出てきた。数日分の着替えを持ち出してきた。
だけど、私には他に行く宛などなかった。
あいにく、今回泊まったホテルは一泊分の空きしかなかった。他にも近くに連泊出来るような場所がないか探していると、ブンっとスマホが短く震えた。尾形くんが到着したらしい。まだ少し残っていたコーヒーを飲み干して席を立ち、店を出る。
まだ昼前だというのに、照りつける日差しが肌に刺さって痛い。それから逃れるように尾形くんが乗っている車を探して、すぐに駆け寄った。
「おはよう……ではもうないか。昨日ぶり」
「ああ。乗れよ。荷物は後ろの座席にでも置いておけ」
「うん。ありがとう」
運転席に乗ったまま、彼は助手席の窓を開けてそう言った。それに従って荷物を置き、助手席へと乗り込む。
「何か食べたいものあるか」
「ううん、特には。強いて言えば軽めのものかな」
「そうか。来る途中にベーカリーカフェがあったけど、それならどうだ」
「うん、じゃあそれで」
車がゆっくりと走り出す。ハンドルを握る白い腕が、黒いシャツから伸びているせいかよりその白さを強調しているようだった。今尾形くんの車で、助手席に座っている、という事実に急に汗が噴き出てきた。昨日の今日だから、余計に。
五分ほど走っただろうか。焼きたてパンと美味しいコーヒーと看板に書かれたお店の前に車を停めると、ふんわりとパンの匂いが鼻に届き胃を活性化させた。食欲がないと思っていたのに、気を抜くとお腹が鳴りそうだった。
店内に入ると、たくさんの種類のパンが並んでいた。ここから好きなものを選んで、ドリンクを頼んでイートインスペースを利用できるようだ。トングとトレーを取ろうとしたが、尾形くんが先に手に取り「お前はどれが食べたい」と聞かれる。ぐるりと店内を回って少し悩んだけれど、たまごとハムの挟まれたサンドイッチとバターたっぷりのクロワッサンにした。いつも色んなパンが並ぶお店に行っても、結局はこの辺を選んでしまう。尾形くんも同じものを取ってレジへと並ぶ。ドリンクだけでなくスープやサラダのセットも頼めるようだったので、私たちはそれを注文した。会計は別のつもりだったが、尾形くんが「俺が誘ったから」と払ってくれた。
「で、昨日は何があったんだ」
「あ……やっぱり聞くよね」
席につきいただきますと手を合わせるとすぐに尾形くんは口を開いた。車の中でも天気がいいだとか、彼の泊まったホテルは寝心地が悪かっただとかそういう話しかされず、昨夜のことについては何も触れられなかった。聞くつもりないのだろうかとさえ思っていたのだけど。
何をどう話そうと思いながら、スプーンでスープをゆっくりとかき混ぜる。その間も食べ物には一切触れずにじっと見つめてくる尾形くんに耐えかねて「とりあえず、食べようよ。クロワッサンも温めてもらったし。ね?」と言った。
せっかく湧いてきた食欲が、昨夜のことを話している内にまた姿を隠す気がしたからだった。
ほんのりと温かいクロワッサンは、さっくりとしていて口の中でバターの風味が広がって美味しい。大丈夫、私はまだこのパンを美味しいと思えるほどの元気はあるのだ。それを確認出来た後、お互いのトレーの上に乗った食べ物が半分ほどになってから、私はポツポツと話し始めた。
付き合って三年ほどになる恋人がいること。その恋人と一緒に住んでいたこと。昨夜帰宅したら、見知らぬ女が家にいて行為の真っ最中だったこと。それを見た瞬間頭が冷えて、とりあえず荷物を持って出てきたこと。
ただ黙々とサンドイッチを頬張りながら尾形くんは話を聞いてくれた。昨夜の話になったところでピクリと眉を顰めたけれど、私が全て話し終わるまで、ただただ静かに聞いてくれた。
「これが初めてなのか」
「え?」
「浮気」
「そう……だと思いたいけどな」
だけど断片的に聞こえた会話の感じだと、前々からあの女の人とも付き合いはあったのだろう。私のことを知った上で、向こうの人も付き合っている感じはあった。
「何にせよ、家に連れ込んだのは初めてなんじゃないかなぁ。私、基本家にいるし」
「あぁ、在宅で仕事やってるんだったか」
「まあ、たまには打ち合わせとかで出かけるけど、最近はそれももっぱらオンラインで事足りるしね」
元々広告代理店でデザイン関係の仕事をしていたが、昨年激務で体調を崩したのをきっかけにフリーランスに転身した。以前ほどの稼ぎはないが、一人で食べていくには困らないくらいにはそれで収入を得ている。
恋人は会社勤めだった。最近残業が増えたと思っていたが、今考えるとあの女の人に会っていたんだろう。
「これから、どうするんだ」
「うーん……どうしようかな」
勢いで飛び出してきた。最低限の着替えや仕事道具は持って出てきたが、それだけではもちろん困る。だけど、彼の名義で借りていたあの部屋にまた戻って生活する気には到底なれない。長い間そばにいたから情はもちろんあるけれど、元々強い恋心や愛情で付き合っていたのではない。彼への信頼とそばにいる安心感から一緒にいて将来の事も考えていたのだ。それが崩された以上、もうそばにはいたくない。
「実家、近いんじゃないのか」
「うちの両親離婚していて、それぞれ別の人と再婚して家庭を持ってるから、ちょっとな」
「友達の家は」
「同年代の子はもう、家庭持ったり同じように恋人と住んでたり……あとはちょっと離れてたりだからなぁ」
「そうか……」
言えば言うほど、普段から頼る相手の少ない人間だなと我ながら笑ってしまう。
「まあしばらくはこの辺でホテルとかネカフェとかで凌いでみるよ。隙をみてあの部屋からは荷物運び出したりしながら」
「……仕事は、オンラインでなんとかなるのか」
「んー、まあ、ほとんどは」
「それなら、多少はこの辺りを離れても問題なさそうか」
「え? あぁ、多分」
じっとこちらを見て話を聞いてくれていた尾形くんだったが、目を伏せしばらく何かを考えていた。思っていたよりも親身になってくれた尾形くんに、ありがたさと申し訳なさが混在して、私も視線を落とした。二人分のトレーの上には、もう食べ物は残っていなくて白い食器だけになっていた。
考え込んでいた尾形くんは、カチャリとコーヒーカップに手をかけると、数口それを流し込んでからまた私へと視線を戻した。
「もしよければ、俺の家に来るか」
真似して口をつけようとしたコーヒーカップを、私は危うく落としてしまうところだった。
「え、俺の、って、尾形くんの家?」
「ああ。県外に出る事になるが、車移動出来る距離ではあるし、幸い交通機関も整ってる」
「いや、それは、まあなんとかなる、けど……」
「広めの部屋を借りたはいいが、仕事の都合で寝に帰ってるようなもんだから、使ってない部屋が一部屋ある。次に住む場所が見つかるまでそこを使えばいい」
「……いや、でも」
「なんなら、ずっとそこに住んでくれてもいい」
始めは冗談を言っているのかと思った。だけど、彼の瞳があまりに真剣にこちらを見るから、その言葉は本気のようだった。
「なんで?」
「なんだ」
「どうして、そこまで……? 久しぶりに会った私に」
そう言った私の目を見て、尾形くんは少し黙ったあと髪を撫で付けながら言った。
「昨日も言ったろ。忘れられなかったと」
「……」
「別に、今すぐお前をどうこうしようというわけじゃない。ただ、お前が困っているなら手を貸したい、それだけだ」
「そ、っか」
「……まあ、手段の一つと思うだけでもいい。さっき言ったようにホテルを転々として、それでも困ったら連絡をくれるでもいい」
「うん……」
すぐに首を縦にも横にも触れなかった。手にかけたままのコーヒーカップを、口元に運ぶ。先ほども味わったコーヒーが、味を失ったように思えた。
店内が混み合ってきたのを見て、尾形くんは「そろそろ出るか」と席を立った。後を追うように店を出て、車に乗り込む。
「とりあえず、お前の家行くか」
「えっ」
「荷物、もう少し運び出したいんだろう。それとも、男が今家にいるか?」
「今日は外せない仕事があるって言ってたから、多分家にはいないと思う、けど」
「じゃあ、今のうちに行ったほうがいいだろう。ナビしろ」
「うん、ありがとう」
シートベルトを締め、進行方向を告げる。時折曲がる方向を伝えながら、私はポツポツとまた話をした。
「私ね、誰かと何かを始めることが怖いの」
「どういうことだ?」
「始めちゃうと、終わりが来るでしょ。だから、今までも恋愛をするのが怖かったの。恋人とは、きっとそうはならないと思わせてくれたから付き合ってた。なのに、結局こうやって終わりが来ちゃった」
「……そうか」
「……尾形くんがさっき提案してくれたこと、昨日の夜のことも、すごく嬉しかった。尾形くんは私の初恋の人で、どこかでずっと忘れられなかったから」
信号が赤になる。車が停まり、「じゃあ」と口にした尾形くんに被せるように、私は言った。
「嬉しかった。だから、私は尾形くんのところにはいけない。またいつか終わってしまうかもしれないのに、尾形くんとの生活を始めるのが怖い」
「……」
「幸せな思い出が一つ増えた。でもこれ以上は、怖いんだ。臆病だから。ごめんね、でも、ありがとう」
信号が変わるまでの時間が、ひどく長く感じる。赤信号の間、尾形くんは一言も話さなかった。青へと変わって車が動き出してやっと、尾形くんは「そうか」とだけポツリと言った。
それからの時間は、私が進行方向を告げるだけで、あとは無音だった。音楽もラジオもかけずに走る尾形くんの車は、それでいて居心地は悪くなかった。
マンションが見えてきて、敷地内に車を停めてもらった。私も恋人も車を持っていないので駐車場は借りていないから、邪魔にならない位置に停めて待ってもらうことにした。
「ありがとう。すぐに荷物まとめてくる」
「ゆっくりでいい。何か手伝うことがあれば、電話で呼べ」
「うん、ありがとう」
とりあえず昨日持ち出した着替えなどは大きめのバッグに詰め込んだまま尾形くんの後部座席に置かせてもらっていた。部屋には大きめのスーツケースがあるから、それに詰められるだけの着替えと身の回りのものを詰めてしまおう。入らなかったものはもう、諦めてしまえばいい。
本当はちゃんと恋人と会って別れ話をするべきなんだろうけれど、もう顔も見たくなかった。両親の離婚の原因が不倫だった話を過去に恋人にもしていて、浮気や不倫を何よりも嫌っているのを知った上で、あんな裏切りをした人と会いたくなかった。
マンションへ入ろうとした時に、ちょうど郵便業者の人とすれ違った。オートロックを解除する前に開いた自動ドアを潜り抜けながら、合鍵は後でポストにでも入れておこう。最後に手紙だけでも残していこうと考えていた。
部屋の前まで来てから、鍵がバッグの中に入っていないことに気付いた。財布やスマホを入れていたショルダーバッグをどれだけ探っても見当たらないのだ。もしかしてと尾形くんへと電話をかける。
『どうした、早速何か手伝いか?』
「そうじゃないんだけど……後ろに置いていたバッグのポケットに、キーケース入ってたりする?」
『ん? ……ああ、あるぞ。薄いグレーのキーケースか?』
「そうそう、それ」
ああ、やっぱりそちらの方に入れてしまってたのかと小さくため息をつきながら来た道を引き返そうとした時だった。
誰もいないはずの部屋の扉がガチャリと開いて、私の腕が力強く掴まれた。突然の出来事に悲鳴をあげる事も出来ないまま、私は部屋の中へと引っ張られ、バランスを崩して倒れ込んでしまった。勢いよく落としたスマホからすごい音がしたけれど、壊れてはいないようだった。『おい、どうした? 大丈夫か?』と尾形くんの声が聞こえる。だけどその通話はすぐに切られてしまった。虚な目をした、恋人の手によって。
「おかえり」
私と玄関扉の間に立ち塞がり鍵をかけた恋人は、そう言って振り返った。
「な、なんでいるの。仕事は?」
「休んだよ。彼女が出て行って連絡もつかなくて、心配で仕事どころじゃなかったからね。どこ行ってたの?」
「近くのホテルに泊まってた」
「一人で? さっき電話してた男と?」
「一人でだよ」
私がそう答えると恋人は怖い顔をして「うそつけ」と大声を張り上げた。
「お前だって他に男がいたから簡単に出て行ったんだろ」
「自分が浮気してたからって、私もそうだと決めつけないでよ。私がそういうの毛嫌いしてるの、知ってたでしょ?」
「ああ知ってた。そう言う割に俺がよそで何してても気付かないくらい、お前が俺に関心がないのも知ってたさ」
「何それ」
「結婚話ものらりくらりとはぐらかして、残業が増えても気にしないで、俺のことどうでも良かったのは、お前も他に男がいたからなんだろう!?」
「待って、話が支離滅裂でわからない。ちょっと落ち着いてよ」
自分が浮気したのを棚に上げて、恋人はひたすらに「お前は俺を愛していなかったから」「他の男を愛しているから」という事を繰り返した。だから自分も浮気をしたのだと。だけどそれは遊びで、本当は私に愛されたかったというような事を、何度も何度も。
あらぬ濡れ衣を着せた上自己正当化ばかりで謝罪の一つもない恋人に呆れてしまい、私は「もうそういう事にしていいよ。私が悪かったことにしてもいい。どちらにせよ、もう別れる。この部屋も出て行く。他の女とあなたが行為をした部屋で私は眠ることは出来ないから」と言って立ち上がった。靴を脱いで部屋の中へ入っていくと、しばらく立ち尽くしていた恋人が近付き背後から覆い被さった。
「ちょ、何するの」
「別れるもんか。別れない」
「いや、ちょっと、離して」
「離すもんか」
グイッと体を彼の方へと向けられ、噛み付くように唇を重ねられる。無理やりに服を脱がそうとする彼の行動にゾッとして、私は出せる限りの力を振り絞り、彼の体を突き飛ばした。
「やめてってば!」
抵抗しても敵わないと思っていた。けれど、思ったより容易く離れた彼の体は、そのままバランスを崩して後ろ向きに倒れ込んだ。ガゴッと鈍い音がする。
リビングに置かれた、お気に入りのガラス製のローテーブル。二人で一緒に住むと決めた時、初めて二人でお金を出し合って買った家具だ。
そのテーブルの角に後頭部を強く打ち付けた彼は、そのまま動かなくなってしまった。
あまりの出来事に呆然と立ち尽くした私をハッとさせたのは、玄関から音がしたからだった。
ガチャンっと鍵が開くと「おい、大丈夫か?」と尾形くんが勢いよく扉が開いた。その姿を見た瞬間、私は震えが止まらなくなって床へとへたり込んでしまった。
「あ……おが、尾形くん」
「……何があった」
私に駆け寄ってきた尾形くんは、その先に倒れ込んだ恋人と私を交互に見た。説明をしたいのに言葉が出ず代わりに涙ばかりが溢れる私を見兼ねて、恋人のそばへと進んでいく。そっと彼の口元に手を近付け「息、してない」と呟いた。
「し、死んじゃってるの?」
彼は返答に迷うように眉を顰めた。震えも涙も止まらなかった。私は、人を殺してしまったのだ。それも、恋人だった人を。
過呼吸を起こしそうなほどパニックになった私を、尾形くんは抱き寄せた。
「どうしよう、どうしよう」
「安心しろ、俺がなんとかするから。だからお前は落ち着け」
なんとかするって、どうするというのだろう。泣きじゃくる私の背中を撫でながら尾形くんは「とりあえず、お前は荷物をまとめろ。服とかは最悪諦めて、仕事や生活に必要なものをまとめてしまえ」と言った。でも、と恋人の姿を見ると「こっちは俺がなんとかするから、お前はこの家を出る準備をしろ」と続けた。
彼が冷静に指示を出すので、私は混乱しながらもそれに従った。ありったけの持ち物を入れる為にスーツケースを出すと、「それはこっちに貸してくれ、違うバッグにまとめられるだけまとめろ。あと、軍手か何かないか」と言われたので彼に明け渡し、他のボストンバッグに荷物を詰めた。
涙を拭いながら荷物をまとめ終わり尾形くんの元へと戻ると、恋人の姿が消えていた。汗だくの尾形くんがスーツケースを起こしたのを見て、消えた恋人がこの中に入っていることを私は悟った。
「こ、これから、どうするの」
「運び出す。ここ、エレベーターにカメラついてるか」
「確か……」
「ここに上がってくる時、エレベーターがなかなか来なかったから階段を使った。階段にはカメラついてなかったが、流石にこの重さを階段で運び出すのは厳しいな」
結局私がエレベーターを使い、スーツケースとボストンバッグを持ち出した。階段で降りた尾形くんと下で合流し、鍵を下のポストの中へ入れて車へと乗る。
こんな事をしていいのだろうか。救急車や警察をまず呼ぶべきではなかったのか。車が動き出してようやくその考えが出てきたけれど、きっともう遅いのだろう。見慣れた街並みが遠くなっていく。行き先を告げられないまま走り出す車は、どこへ向かうかわからない。
私は一体、どこまで行ってしまうのだろうか。
一時間ほど車を走らせただろうか。外が少しずつ暗くなっていくのは日が沈んでているからではなく、木が生い茂る山奥へと入ってきたからだ。ここがどこの山かもわからないまま、私は無言で尾形くんの隣に座っている。途中で寄ったホームセンターでの購入品を見て、私はこれから何が行われるかうっすらとわかっていた。わかっていたけれど、言葉にして尾形くんに確認するのが怖かった。
「この辺でいいか」と尾形くんが車を停める。降りて荷物を運び出した彼について行くと、大きなスコップと軍手を渡された。予感が的中する。躊躇いながら受け取ると、彼は「別に見てるだけでもいいぞ」と言った。だけど、無言で穴を掘り続ける彼を、黙って見ているだけなんて出来なかった。震える手で少しずつ、私も穴を掘り進めていった。
「これくらいでいいだろう」
「このまま入れるの?」
「何かあった時、マンションの監視カメラを調べられたらお前がこのケースを使ったのがバレるだろう。ケースごとはまずい」
彼はスーツケースを開け、中に入っていた恋人――だったもの――を穴の中へと放り投げた。あのままだと入り切らなかったのだろう、首や腕があらぬ方へ曲がっている
掘った穴に、土を被せていく。普段行うことのないその作業に、腕は悲鳴を上げていた。
土を被せられたその場所は、周辺とは色が変わっている。発見が早ければ、すぐにここに何かが埋まっていることがわかってしまうだろう。不安と恐怖でその場所を見つめ続けた私に、尾形くんは「安心しろ」と言った。
「明日明後日にはこの辺は雨予報が出ている。雨に濡れれば土の色は分かりづらくなる」
「雨のせいで出てきたりとか」
「それもないだろう」
「……そっか」
泥だらけになった軍手を外して、彼から渡された袋に入れる。私の手は少し泥もついていないのに、落とすことのできない汚れがついてしまったように思う。
「それじゃあ、行くか」
「……どこに?」
「俺の家に」
「尾形くんの、家?」
先ほどカフェからの帰り道に断った、彼からの提案。だけど、彼は私にもう一度手を差し出した。
「いつか終わる関係が怖いと、お前は言ったな」
「……」
「こんな共同作業をしておいて、俺たちが終わると思うか?」
軍手の入った袋を握り締める。私の手は汚れてしまった。そして、彼の手も汚してしまった。もう私たちは戻ることは出来ないのだ。
「終わらせることなんか、許されないんだよ」
彼の表情は変わらないままで、感情が読めなかった。この罪は消せない。共犯となった私たちは、容易には関係を終わらせることは出来ないのだろう。手は未だ震えるままだ。
それなのに。
尾形くんと私の間に、終わりがくることはないのだという事実が、私の心も震わせた。
いつか終わりがくるのが怖くて、彼との恋は一方通行のまま、何も始めたくはなかった。
だけど、今日から私たちは始まっていく。
「もしも終わる時は、二人一緒だ」
どんな愛の誓いよりも、その言葉はずっしりと重く、だけど甘く私に響いていた。
ゆっくりと彼の手を取る。逃げることを許されない、終わらない関係が、今日ここから始まっていく。
仄暗い純愛が個人的裏テーマです。
初出・2023/08/19