ずっと君が怖かった
窓から差し込む夕陽が、目の前の月島くんの横顔を照らしている。律儀に待たなくてもいいのにと思いながら、私は早く書いてしまおうと日誌の上にシャーペンを滑らせた。
「えーっと、今日の休みは塚本くん……っと。これ、時間割とか書く意味あるのかと思うよね、基本一緒なのにさ」
「だな」
「今日の出来事って言ってもなぁ。毎回困るんだよね」
一日の事を振り返ろうと思うけれど、今日はみんなでチョコレートを交換した事くらいしか思い出せない。流石にそんな事、学級日誌に書ける訳もないし。
「何か思いつくことある?」
「特に」
「みんな浮き足立ってお菓子の交換をしていました?」
「流石にだめなんじゃないか」
「だよねぇ」
月島くんは日誌に書く内容を一緒に考えるわけでもなく、ただ目の前に座って窓の外を見ていた。それなら先に帰ってくれてもいいのに、と思ったけれど本来日直である塚本くんの代わりに日直の仕事をこなしてくれているのだ。一人よりは心強い。とはいえ、月島くんとは小学校からずっと一緒だけど、あまり話す機会のなかったからなかなか会話を膨らますことが出来ない。
「うーん……いつもは掃除時間ふざけている男子が、今日はちゃんと掃除していました。とかでもいいかな」
「いいんじゃないか?」
「じゃあそう書いちゃお」
問い掛ければ返事は返ってくるけれど、視線は窓の外のままだ。上の空というか、何というか。考え事でもしているのだろうか。
書くことが固まったのであとは手を進めるだけだ。しんと静まり返った教室の中にシャーペンの音だけが響く。どうせまた適当な返事だろうけど、それでも沈黙よりはマシだと私は口を開いた。
「月島くんも、結構チョコもらった?」
「ん? あぁ……まあ」
「甘いの好きなんだ?」
「好きってほどじゃないけど、まああれば食べる」
「そっか」
うちのクラスの子達は、基本的にみんな仲が良い。それは男女の隔たりもほとんどなくと言っても良いほどだ。それもあってか、休み時間にはほとんどの女子たちが男女問わずみんなにチョコレートを配ったり交換したりという状態だった。かくいう私も、スーパーで見かけた大袋に入ったチョコレートをそのまま持ってきて配り回った。甘いものばかりじゃ飽きると思って、ほんの少し苦めのビターチョコレート。
中には甘いものは苦手だからと断る男子もいたけど、月島くんは確かに受け取っていたな。でもあの中、多分義理チョコとか友チョコのふりした本命チョコ一個くらいありそうな気がする。明らかに他の子達へ配るものと違った、ラッピングに力を入れたものを受け取っている姿を見かけたから。
ただ残念なことに、当の本人は気づいていないのか全て同じような顔して受け取って通学バッグへとしまっていた。そういうところも密かな人気の理由なのかもしれない。私の中で月島くんってちょっとこわい男の子なんだけど、意外とモテるらしいんだよな。小学校の頃はそんな話聞かなかったのに、中学になってそういう噂を耳にする機会が増えた気がする。
そんな事を考えてながら日誌を書き綴って全ての欄を埋め尽くした。ようやく帰れると帰り支度をすると、バッグの中に残ったチョコレートを見つけ手を止めた。まだ帰る素振りを見せない月島くんを不思議に思いながらも、私は顔を上げて声を掛ける。なんだかんだ日直の仕事をちゃんと手伝ってくれた感謝の意味を込めて、このチョコをもう少しだけお裾分けしようと思ったのだ。
「そうだ月島くん、私まだチョコ少しだけ余ってるんだよね。よかったら……」
「あっ、基ちゃん! よかった、まだいたんだ」
だけど私の声は、廊下から聞こえた声によって阻まれた。先ほどまで上の空だった月島くんが勢いよく立ち上がったので、私の方が驚いてしまった。
「ちよ」
バッグを置いたまま扉の方へとずんずん進んでいく月島くんをしばらく目で追ったけれど、これはあまり見ない方がいい光景だろうかと思って俯いた。私は空気ですよと自分に言い聞かせながら帰り支度をする。だけど、耳はどうしたって二人のやり取りを拾い上げたくてそちらに集中してしまっていた。
違うクラスの春見ちよちゃん。同じ小学校で、低学年の頃は一緒に遊ぶこともあった。癖っ毛の髪をよくからかわれていたのを覚えている。元から整った顔の子だったけど、中学に上がってからはめきめきと可愛くなって、高嶺の花のような存在だった。
元々二人が幼馴染なのは知っている。だけど、まだお互いを下の名前で呼び合う仲なのだということに驚きを隠せなかった。ある時期から、二人が話す姿は見られなくなったから。
小学生の頃、髪のことでからかってきた男子を、ちよちゃんの代わりに月島くんが殴ったことがある。それをきっかけに、今度は別の男子たちがちよちゃんの髪のことではなく二人の仲を冷やかすようにからかうようになった。それから、二人は距離を取ったように感じていた。
もしかして、みんなには内緒で付き合っているんだろうか。そんな野次馬心が沸いてしまって、意識は自然とそちらに向いてしまう。
「基ちゃん、あのね。ちゃんとチョコ渡せたよ。それでね……その」
「付き合うことに、なったのか」
「……うん。ふふ、ありがとう。基ちゃんに相談してよかった」
「……そうか。よかった、な」
もう帰り支度は終わったというのに、教室から出ることもできない私は結局二人の会話に耳をそばだてていた。だけど、思っていた内容とは少し違った。あの感じだと、ちよちゃんは他に好きな人がいて告白した、という事なのだろうか。
「これ、基ちゃんへのお礼。たくさん味見させたから、もういらないかもしれないけど」
「そんな事ない。ちゃんと家帰って食べる」
「うん! ……あ、ごめん。もしかしてお邪魔だった?」
気配を消したまま佇んでいた私にやっと気づいたのかちよちゃんは私の方を見てにこりと笑い手を振った。名前の通り、春のような優しい笑顔だった。
「いや、日直だったから。もう終わったから俺たちも帰るところ」
「そうだったんだね。お疲れ様。それじゃ……ふふ、早速一緒に帰ることになったから、行ってくる。本当にありがとうね」
「……ん」
じゃあね、とちよちゃんは私にも笑いかけパタパタと廊下を掛けていった。
去っていった春の風の後、月島くんの横顔が目に入った。先ほどちよちゃんに向けた顔とも、ぼんやりと窓の外を眺めていた時の顔とも違うその顔に、私はなぜか胸を締め付けられた。一生懸命に何かを押し殺して堪えているような、見ているこちらの心臓が痛くなるくらいの辛そうな顔。
そのくせ、今日受け取ったどんなチョコよりも大事そうに彼女からのチョコを抱える姿に、私は気づいてしまったのだ。月島くんは、ちよちゃんをどう想っているかという事に。
声を掛けようにも掛ける言葉が見当たらなくて立ち尽くした私に、月島くんの方から動き出した。彼の中で気持ちを切り替えたのか、いつもと同じ無表情さで机へと戻ってくる。
「悪いな、帰るに帰れなかったんじゃないか」
「あー、ううん。大丈夫」
私こそ、なんか聞いちゃってごめん。ヘラヘラと笑いながら言う私に、月島くんは苦笑いをしながらバッグに手を掛けた。私も自分のバッグと日誌を持ち、それから歩き出す前にもう一度声をかけた。
「あ、そうだ……チョコ、まだ余ってるから……その、よかったらもらってくれないかな」
「ん? あぁ……」
はい、とチョコを数個手に取って差し出す。それを表情一つ変えずに受け取って他のチョコと一緒にバッグにしまい込む彼を見て、何故だか胸がちくりと痛んだ。
「日誌、私が提出しておくから。月島くんはもう帰っていいよ」
「俺が持っていこうか」
「そんなもの持ったまま職員室行ったら没収されちゃうよ。先生に見つかる前に早く帰りなよ」
先ほどちよちゃんから受け取ったチョコレートを大事そうに持ったままの手を指差して言うと、月島くんはまたほのかに顔を歪ませて笑った。その表情に、鼻の奥がつんとする。涙が溢れそうになるのを堪えて、それじゃあまた明日と彼を置いて廊下へと出た。
月島くんのこと、ずっとこわいなと思っていた。だけど、二人になると何を話せばいいかわからなくなるのは、多分きっと彼がこわいからじゃない。他の誰かが月島くんの事を好きだとか格好いいと言うのを聞く度モヤモヤするのは、彼はこわい人なのになって気持ちだったからじゃない。
バカだな私。月島くんがこわかったんじゃなくて、誰かのことをすごく好きな月島くんの事、好きだと認めるのがこわかっただけじゃないか。
茜色の空が紺色に少しずつ染まっていく。これをきっかけに月島くんの気持ちも変化していけばいいのに。だけど、昔ちよちゃんと話さなくなった時と同じ顔をしていた月島くんを思い出しながら、しばらくそんな日は来ないんだろうなと思った。
心を落ち着かせたくて、大好きなチョコレートを一つ頬張る。甘いミルクチョコレートにするべきだったな、と口一杯に広がるほろ苦いビターチョコレートの味を噛み締めながら、私は職員室へと一人向かっていった。