第三話 青天の霹靂
週末、いつものように尾形くんと共に私の家へ帰ると、ポストの中に一通の封筒が入っていた。差出人はどこかの企業でその名に見覚えがあるが、いまいちピンと来ないまま部屋で開封する。それは尾形くんと初めて一緒に見た人気シリーズ映画の試写会のチケットだった。そういえば、近々最新作が上映されるからと何となく試写会に応募していた事を思い出す。
「へぇ、こういうの当たるもんなんだ」
「いつあるんだ」
「んーっと、来週の火曜日みたい」
「バイトか」
「ううん、休み」
「そうか。ちなみに俺も空いてる」
「はあ、そうですか」
つまり、一緒に行くぞって事なんだろう。三ヶ月近く尾形くんと一緒に居るようになって、何となく彼の人となりがわかるようになってきた気がする。
「来週の火曜日か、ちょうどいい」
「何が?」
「いや、なんでも」
カレンダーを眺めながら口角を上げる尾形くんを見て、いややっぱり何を考えてるかわからない人だなと思った。
その日も尾形くんは当たり前のように私の家でお酒を飲みながら映画を観て、シャワーを浴びて私のベッドに潜り込んだ。こんなに何度も一緒のベッドで寝ているのに、一度だってキス以上の事がないだなんて、そんなにも私には女としての魅力がないのかと少し悲しくなってくる。
隣でもう眠りにつこうとする尾形くんの、いつもはきっちりセットしている髪がサラサラと彼の顔にかかる。私はこの尾形くんを見るのが一等好きだった。こちらを向いて眠る尾形くんの髪を何房か掬って、そっと指に絡ませる。目を瞑っていた尾形くんが眉を顰めて、不機嫌そうになんだと呟く。
「ん? ふふ、尾形くんって意外と童顔だよね」
「あ?」
「髪と髭で大人っぽく見えるけど、こうしてたら可愛いなあって」
「馬鹿言ってないで寝ろ、酔っ払い」
そう言って、髪を弄んでいた私の手を握って尾形くんは眠りにつく。自分の髪が弄られるのを防ぐ為とはわかりながらも、その温もりが嬉しくて切なくてどうしようもなく胸がぎゅっとなる。こんな尾形くんの姿を知る女の子が、どうか私だけでありますようにと願いながら、そっと目を閉じた。
土曜日の朝は、大抵私が目覚めるより先に尾形くんは起きて身支度を整えている。時には、勝手知ったるなんとやらという様子でトーストを用意して食べている事さえ。流石に合鍵の類は渡していないので、私が起きるのを待って尾形くんはいつも部屋を後にする。今日はどうやら時間に余裕があるらしく、トーストだけでなくスクランブルエッグまでテーブルに並んでいた。また勝手に、と思いながらも美味しそうな匂いにお腹が鳴る。
「ひでぇ顔だな」
「うるさいなぁ」
「涎ついてるぞ」
「えっうそ!」
「冗談だ、いいから顔洗ってこい」
「はぁい」
洗面台へ向かいながら、また尾形くんとの時間が終わってしまう事を寂しく思った。
尾形くんは、いつも金曜の夜にうちへ来て泊まっていく。だけど、土曜の朝、遅くとも昼過ぎには必ず帰って行く。土日に遊んだ事は一度もなかった。それがまた余計に、この関係の宙ぶらりんさを際立てているような気がした。
本当は彼女がいて、いつも土日はその子と会っているんだろうか。何度もそう思い浮かべては、ううんそんなはずはないと必死で否定する。
尾形くんは、初めてこの家に来た時に確かに言っていた。彼女がいたら私の家に来てない、と。たった一度言われたその言葉を何度も心の中で反芻させては、私の家に遊びに来ている限りは、尾形くんには彼女はいないのだと言い聞かせていた。不毛な事だとはわかりながら。
朝食を食べ終わると、尾形くんは帰り支度を始める。いつものように玄関で見送っていると、ああそうだと彼は振り返る。
「火曜日、何時からだ」
「え? ああ、試写会ね。確か七時からだよ」
「じゃあ、講義の後適当に何か食ってから行くか」
「うん、まあまた当日連絡し合おう」
それじゃあな、と出て行く彼を見送って、そう言えば二人でどこかへ行くのは初めてだという事に気付いて、急に浮かれた気持ちになる。ご飯を食べに行く事くらいはあったけれど、それ以外で二人で出掛けるだなんて、まるでデートのようだ。
今日は特に予定もない。天気のいい外を窓から見ながら、あとで服でも見に行こうかと浮き足立つ。すっかりここに置いていかれるようになった男物のグレーのスウェットと黒のタンクトップを綺麗に洗濯し、晴れやかな気持ちで私も外へ出る支度をした。落ち着きのない週末になりそうだ。
午前中の内に家の事を済ませて、買い物へ出た。どこまで行こうかと一瞬考え、尾形くんと今度行く映画館が入った商業施設へと向かった。確かあそこにはお気に入りのブランドが入っていたはずだ。ついでに飲食店はどんなお店があるのかも見ておこうかな。なんて考えて、まるでデートの下見に行くような気持ちになって恥ずかしくなった。
土曜日の商業施設は人が多い。家族連れにカップル、友達らと楽しげに買い物をしている人達を眺めながら、私も誰かを誘えばよかったなと少し思う。だけど尾形くんの関係を誰にも話していない私は、デート用に着る服を選んでなどと誰の事も誘えなかったのだ。まあ、別に今度のそれがデートという訳でもないのだけれど。
ぶらりと一通り施設内を周り、お気に入りのブランドとは別のお店で一目惚れしたワンピースを購入した。プリーツのスカートにウエストに細いリボンをベルトのようにあしらわれたそのワンピースは、甘過ぎないけれど普段の私からしたら十分なくらい甘めの格好で、浮かれ過ぎかなと苦笑した。
お昼時だったので飲食店が並ぶ辺りはとても混み合っていて、ちらりちらりとどんなお店が立ち並ぶかだけ確認をした。ご飯はまたどこかで食べればいい、幸いまだお腹は空いていない。尾形くんは何を食べたいと言うかな、と火曜日の事を考えるだけでどこかお腹いっぱいの気持ちだったのかもしれない。
飲食店のリサーチを済ませ、他に何か見たいところがあったっけと目的もなく歩いていると、アクセサリー販売をしている雑貨屋が目に入った。そういえばこの間ピアスを片方失くしたのだった。何か可愛い物に出会えないかとふらりと立ち寄る。一つ気になる物があったが、値段を見ると少し予算オーバーだったのでそっと棚へと戻した。天然石をあしらったそのピアスは名残惜しそうにキラリと光る。ピアスだけでなく他のものも見て回ると、どこかふてぶてしい顔をした猫がモチーフのヘアピンを発見した。その猫がなんだか尾形くんに被って小さく吹き出す。家で付ける分には可愛いかもしれない、値段も手頃だったので手に取りレジへと向かった。
会計を済ませ時計を見ると、時間は午後二時半。流石にお腹も空いてきた。一度ここを出るか悩みながら飲食店が立ち並ぶエリアに足を運ばせると、視界の端に見慣れた姿を捉えた気がした。慌ててそちらの方向を見ると、間違いなくそこに立っていたのは尾形くんだった。いつも私のバイトが終わるのを待っている時のように、壁に背を預けスマホを眺めていた。ドキンと心臓が跳ねる。誰かと待ち合わせなのだろうか。気付かれない程度に、少しだけ近付いてみる。
「ああ、お待たせ百之助くん」
少し先からそんな女性の声が聞こえて、尾形くんに向かっていったのが見えた。まずい、尾形くんが顔を上げたら気付かれるかもしれない。慌てて踵を返し反対方面へと早足で向かった。少し距離を取ったところで尾形くんが居た方向を振り返る。そこにはもう彼らの姿はなかった。
早足で歩いたせいなのか、鼓動がドクドクと煩い。私達よりも幾らばかりか年が上のように感じたあの女性は一体誰なんだろう。尾形くんの事を、下の名前で親しげに呼んでいた。もしかして、もしかすると。
『ねぇ、本当に彼女、いないの? 特定の子とかも』
『いたら来てねぇよ』
あの日の尾形くんとの会話を思い出しながら何度も何度も悪い考えを否定し続けた。先程まで感じていた空腹は消え去り、胃の底が重たくなるのを感じた。気が付いたら家に帰り着いていたけど、どうやって帰ってきたのかも覚えていない。ただただ同じ考えが堂々巡りをしては、苦しかった。
ねえ、一緒にいたあの人は誰?
そんな事さえ私は聞けないのだ。もし聞いてしまったら、もし、あの人が尾形くんの彼女だったら、きっと私達の曖昧な関係はなくなってしまう。毎週末の尾形くんとの僅かな時間さえも消えてしまう。私はずっとそれが怖かった。込み上げるこの気持ちをどうしたらいいかわからないまま、声を出して泣いた。
あんなに楽しい気持ちで買った洋服もヘアピンも、見ているだけで苦しくて袋に入ったままクローゼットに仕舞い込んだ。私の気持ちも、こうやって簡単に仕舞い込んで見えなくなれたらよかったのに。ぐしゃぐしゃになった私の顔を鏡で見ながら、せめてもの抵抗で保冷剤を目に押し当てた。明日もバイトがある、少しでもこの目の腫れが引きますようと願いながら。