第四話 尾形くんの彼女

 案の定、翌朝の私の顔は酷いものだった。一晩中泣き腫らし瞼は腫れ、目の下には大きな隈を携えていた。
 ただ、ひたすらに泣いた事によってスッキリしたようで、気持ちの方は少しばかり落ち着きを取り戻した。冷静に考えたらたったあれだけの事で泣くだなんて馬鹿みたいと反省する。一瞬しか見えなかったけれど、あの女性は少し年上に見えたし、もしかしたらお姉さんがいるのかもしれない。いや、聞いた事はないけど。でもそれでも、彼女とは限らないじゃないか。また自分に言い聞かせているだけだけど、それでも昨日よりかは随分マシだった。
 
 バイト先へ着くと、店長と先輩にギョッとした顔をされた。伊達メガネをかけては来たけれど、やっぱり目立つかと苦笑する。録画しておいた映画があまりに感動作でめちゃくちゃ泣いちゃったんですよ、なんて下手な嘘をついて誤魔化した。
 
「ねぇ、本当はなんかあったんじゃない? 大丈夫?」
「えー、何もないですよ」
「もしかしていつもの彼と喧嘩でもした?」
「……ははは、違いますよ。それにいつも言ってますけど、彼氏とかじゃないですから。本当」
 いつもなら笑ってかわせる先輩の言葉を、今日は上手く返せなかった。どこか冷たい口調になってしまった自分に反省する。私のそんな様子に対して先輩は気を悪くする様子はなく、むしろ申し訳なさそうに「なんかあったら話聞くからね」と言って業務に戻っていった。
 いつもの彼。金曜日にシフトが入っていると決まって上がり時間に私を迎えに来る尾形くんは、もうすっかりこのコンビニ店員達に覚えられてしまった。もし来週から尾形くんが来なくなったりしたら、皆何かを察するんだろうか。そんな想像をしながら胸がチクリと痛む。そんな日がまだしばらくは来ませんようにと願うしかなかった。
 
 
 一週間の始まりの月曜日。今日は一コマだけ尾形くんと講義が被る日だ。元々学内で会っても、全くとは言わないがそんなに会話をする事はない。杉元くん達も一緒ならば話すけれど、という感じだ。だから顔を見ても、きっと平静を装える。大丈夫、大丈夫。そう言い聞かせながら大学へと向かった。
 二限の講義を終え、次の講義の為に教室を移動する。三限目は尾形くんと一緒の講義だ。キョロキョロと教室を見回すと、いつも通り窓際の席の座って外を眺めている尾形くんを発見する。土曜日の事を思い出して胸がまたチクリと痛む。空いた席に座ろうと移動すると、私の姿に気付いた尾形くんが「よう」と私にだけわかるよう小さく口を動かした後、少しだけにやりと笑った。普段ならばしないその行動に、今までだったら胸を高鳴らせていたんだろう。だけど今は、どうして尾形くんがそんなに機嫌が良さそうなのか、その理由を考えたくなくて、気付かないふりをして席についた。
 
 正直、講義の内容はあまり頭に入ってこなかった。チャイムが鳴り教授が教室を立ち去るとすぐに私も教室を出た。何となく、今日は少しでも尾形くんと話す機会を減らしたかった。
 お昼ご飯にはまだ早いが、午後の講義まで一コマ分時間が空いていた。昼時になると学食は混むから今のうちに何か食べておくかと向かう。日替わり定食を頼んで適当な席へ座る。今日のおかずは酢豚らしい。パイナップルの入ったタイプの酢豚があまり好きではない私は、学食の酢豚にはパイナップルが入っている事に気付いて後悔した。まあ仕方がないかと食べ進めながら、食堂の大きな窓から空を見上げる。朝の天気予報では晴れのち曇りと告げていたのに、今にも雨が降り出しそうな空模様を見て溜め息をつく。些細な事ばかりだが、どうにもついてない事は重なるものだ。帰宅まで雨が降り始めない事を祈りながらもう一度空を睨み付けた。
 一人でご飯を食べ終え、さてあともう少しどう過ごそうかと学内をうろついていると、聞き慣れた話し声が聞こえた。杉元くんと白石くんの声だ。次の講義は杉元くん達と一緒なので、暇つぶしに混ぜてもらおうと声のする方へ向かう。そこには二人だけでなく尾形くんの姿もあって、私は咄嗟に皆に気付かれる前に姿を隠した。
「ねぇ〜杉元も合コンに行こうぜぇ? 可愛い女の子が来るらしいんだよぉ〜」
「いや俺は行かないって」
「ちぇっ! 尾形ちゃん、は行かないよねぇ?」
「行かん」
 どうやら白石くんが合コンに誘っているらしい。よく合コンに行っては毎回収穫なしと言っていたのを思い出す。いい人なんだけどな白石くんと思いつつ、尾形くんはきっぱりと合コンを断っていたのを聞いて少し安心する。
「あー彼女持ちはいいねぇ余裕で」
「ははぁ、羨ましいか」
「はいはい。で? 上手くいってんの? その彼女とは」
「まあな」
「っかぁ〜いいなぁ〜! 結局尾形ちゃんどんな子か教えてくれないしよぉ!」
「もしかしてウソなんじゃねぇの?」
「お前らじゃあるまいしそんな事で嘘吐いて見栄張ってどうする。まあ、そのうち分かる」
「紹介してくれるなら早く紹介してくれよなぁ〜出来ればその子の友達も♡」
「阿呆か」
 
 気が付いたら、私はその場から走り出していた。彼女。彼女? やっぱり、尾形くんは彼女がいたの? 昨日のあの女の人がそうなの? 足が、手が震える。この脈打つ鼓動が走っているせいか動揺のせいかわからなかった。一刻も早くその場を去りたいのに足がふらついて仕方がない。
 はらはらと涙が落ちてくる。あんなに泣いたのにまだ涙は出るのかと思うとなんだかもはや笑えてきてしまう。もう講義を受ける気にもなれなくて、そのまま大学を出て家路へと向かった。途中、天気予報は外れて大粒の雨が降り出した。傘を持って来ていなかった私は、涙をその雨で誤魔化しながらひたすら走った。
 尾形くんの嘘つき。彼女なんていないって、いたらここには来ないって、そう言っていたのに。
 黙っていれば、気付かないふりをしていれば今までと変わらず尾形くんはまた私の家にやって来るのだろうか。幸せな時間を失いたくない、だけど、知ってしまったからにはもう今まで通りには過ごせない事もわかっていて、途方に暮れる。いつからそうだったんだろう、もしかして最初からそうだったんだろうか。曖昧でぼんやりと輪郭も見えない私達のこの関係は、結局輪郭を捉えられないままに終わってしまうのか。
 いっその事この雨が思い出もこの気持ちも全部流していってしまえばいいのに。まるでこの間見た映画の主人公のような事を思いながら、冷たい雨に打たれて私は家へと帰った。