たまにはいいよ、たまにはね
空になったマグカップと冷え切ったもう一つのカップの中身を捨ててシンクにつける。振り向けばリビングではまだ薄手の毛布を被ったままもぞもぞと動く影。声を掛ける気にもならず、部屋着から着替えて出かける準備をする。バッグを手に取り、家と車の鍵をつけたキーホルダーを握りしめたところで、ようやくその塊は起き上がり私に声を掛けた。
「どこ行くの」
「買い出し」
「俺も行く」
「いいよ、私だけで行くから」
「米、もうないよ。牛乳もだし、あと醤油も。それからシャンプーのストックも切れてる。だから俺も行く」
「別に、車だしそれくらい持てる」
「いいから少し待ってて」
そう言って目も合わせないまま先ほどまでの塊、もとい私の恋人は顔を洗いに行った。いつもなら立たせている髪のセットもそこそこに服を着替えてものの五分後には行こうかと靴を履き始めた。なんだというのだ、あれほど声を掛けても起きなかったくせに。
昨日、佐一と喧嘩をした。きっかけは、ほんの些細な事だった。一緒に住んでいるというのに細々した家事、所謂名前のない家事とやらのほとんどを私がやっていて、残業終わりの疲れもあって八つ当たりのように佐一をチクチクと責め立てた。最初は笑いながら謝っていた佐一だが、それでも続く私の小言に「なら俺も言わせてもらうけど」と日頃の不満を漏らしそこからヒートアップしてその後は冷戦状態だ。私は間違った事は言っていないという意地と、言い過ぎたかなという反省とが混ざり合いながら頭を冷やすためにシャワーを浴び、部屋へ戻った時には既に佐一はリビングのソファで毛布にくるまっていた。今夜は一緒には寝ないというその意思表示に私はまた腹が立って広々とベッドを占有して眠ったのだった。
そして、今朝に繋がる。
無言のまま、二人で車へと乗り込む。適当に音楽をかけながら、いつも買い出しに行くスーパーへと車を走らせる。車内の空気とは裏腹に、激しめのロックバンドの曲が車内を包んだ。
「……今度」
「え?」
「今度、このバンドのライブがあるらしいよ」
「ふぅん」
佐一が口を開いたが、素気なく返事をしてしまう。そういえば、このロックバンドは元々佐一が好きだった。勧められて聴くようになり、気付けば私自身も好きになっていたのだった。一緒にライブに行った事もある。
「前にライブ行ったの、いつだっけ」
「去年じゃない?」
「最近、行けてないね」
「そもそも、あんまり出掛けてないだろ」
「それもそうか」
佐一は相変わらず窓の外を見たまま、それでも少しずつ会話を繋げていく。表情は見えないけれど、声はいつもよりも少しだけよそよそしいように感じた。
半年ほど前、職場の部署が変わってから残業も休日出勤も増え、忙しさが増した。会う時間が少しずつ減ったのをきっかけに私よりも時間に余裕のある佐一が転がり込む形で一緒に棲み始めて今に至る。二人で出掛けることは減ったけど、一日の始まりと終わりに愛おしい人の顔が見られる事が幸せだと感じていたのに。
それがどうして今こうなっているんだろう。少し鼻の奥がツンと痛くなったところで、目当てのスーパーにつく。降りようとシートベルトを外そうとした私の手を佐一が不意に握り締めた。
「ねえ、」
「なに?」
「買い物、後じゃダメ?」
「えっ、なんで?」
「ダメ?」
「別に、いいけど……」
「ドライブしたい。俺が運転してもいいし」
「運転するのは別にかわらなくていい。私がする。どこか行きたいところあるの?」
「……そういう訳ではないんだけどさ」
「ふぅん。じゃあ適当に走らせるね」
そっと手を佐一から離して、シフトレバーを再びドライブに戻す。所在なさげにしていた佐一の手を指先で少し触れて絡ませてから、もう一度ハンドルを握った。触れた指先がいやに熱く感じた。
「喉乾いたな」
「佐一、朝から何も飲んでないでしょ」
「うん」
「あそこドライブスルーある。ついでになんか食べる?」
「そうする」
目についたファーストフード店のドライブスルーに入り、メニューを選ぶ。ギリギリ朝限定のメニューを頼める時間だった。佐一はマフィンのセットメニューを、私は単品でハッシュドポテトとコーヒーを頼み、車を走らせた。車内に独特な油の匂いが広がる。
「匂いが篭っちゃうから、ちょっと窓開けよ」
「ん。……今日、風が気持ちいいね」
「本当ね」
また無言になりながらも、佐一が渡してくれたハッシュドポテトを口に含む。久しぶりに食べるそのジャンキーな味は、無性に美味しく感じた。
食べ終えたゴミを袋にまとめながら、お腹が満たされたらしい佐一は窓の外ではなく私の顔をちらりと見ていた。はっきりとはわからないけれど、そう感じた。
「なに?」
「ん……あのさ」
「うん」
「ごめんね」
「……ん」
「昨日、ごめん。言い過ぎた。悪いの俺なのに、色々言われてカチンときて」
「私こそ、ごめん。疲れてるからって八つ当たりした」
「でも実際、負担掛けてたのは俺だし」
「それは、まあ、うん。でも、言い方とかは私よくなかったし」
「……当てつけみたいにリビングで寝て、声掛けられても起きるのも癪で。いつも淹れてくれるカフェオレだって、飲まないでいたら捨ててたろ? そのまま寝たふりしてたらどこか行こうとするから、出ていくのかと思った」
「出ていく? 私が?」
「うん」
「どこに」
「それは……わからないけど」
「あの家、私が借りてる家だし。出ていくなら佐一でしょ」
「それもそうか……え、出ていった方がいい?」
「そういうつもりで言ったんじゃないけど」
「うん……そっか」
信号が赤になって、ゆっくりと停車する。項垂れながら膝の上で左右の指をいじいじとしている佐一をほんの少し眺めた。体は大きいのに、今こうしている姿の佐一は、なんだかとても小さく感じるのは窄めた肩のせいだろうか。
「……久しぶりに一人でベッドで寝たらさ、すっごく広々して感じた」
「快適だった?」
「うん。大の字で寝ちゃった」
「そっか……」
「でも、それ以上に寂しかった。こんなにベッド広かったんだっけって。朝起きたらいつもの位置に縮こまって寝てた」
「……そっか」
「昔は一人で寝るのなんて、当たり前だったのにね。いつの間にか隣に佐一がいるのが当たり前になってたんだなって」
「うん」
「……今夜は、一緒に寝てくれる?」
信号が青に変わる。行き先も決めないまま車はまだ走る。景色が速度を上げて変わっていく中、佐一がもちろんとゆっくり頷くのを視界の端で捉えていた。
「なんなら、今からでも」
「え?」
「ほら、あそこ」
そう言って佐一は近くにある少し派手な外装の建物を指さす。ラブホテルだ。
「ねえ、まだ朝なんだけど」
「もうすぐ昼になるよ」
「そういう問題じゃなくて」
「なんか今、すごく抱きたくなった。最近シてなかったし」
「ばーか」
「ダメ?」
姿はまるで大型犬のくせに、子犬のように首を傾げながら佐一は言う。
「……家帰る?」
「待てない。なんならこのまま抱きたいくらいだし」
「それはダメ。……仕方ないなあ」
そう言いながらも、佐一の言葉に下腹部がキュッと疼いた。なんとなく周囲に車があまり走っていないことに安堵しながら、煌びやかな看板を掲げる建物に入っていく。
「ホテルも久しぶりだね」
「そうね」
「ちょっといい部屋入る?」
「好きにしたら」
なんだか照れ臭くてついそんな風に返事をする。そんな私を嬉しそうに見ながら佐一はギュッと指を絡ませて部屋を選んだ。エレベーターに乗る間も部屋に向かう間もずっと絡ませた指は離れない。こんな風に歩くのだって、なんだか随分久しぶりに感じた。
「たまには悪くないね」
「何が? ホテル?」
「んー、喧嘩もホテルもドライブも」
「ドライブとホテルはいいけど、喧嘩はなるべくしたくないなあ」
「まあ、そうだけどね」
それでも、喧嘩してもこうやって仲直りして、お互いがお互いを必要としているんだって再認識出来るなら、それも悪くない。いつもよりも性急に求め合って重なりながら、そんな事を思うのだった。
思いがけず反応をたくさんいただいた思い出。
初出・2022/10/17