私を見ないで

 振り返ることはできなかった。あんなに暑かったのに、背中には冷たいものが伝った。
「ねえ、ナマエちゃんでしょ。待って」
 後ろから杉元くんの声がする。お願いだから、勘違いだったかと諦めて欲しい。気付かれたくない、気付いて欲しくない。いつもと違う装いの、私のことなんか。
 呼ばれているのが私だと思いませんでした、とでも言うように反応することなくスタスタと歩いてみるけれど、声の主はもう一度「ナマエちゃんってば」と私を呼び手を掴んだ。
「聞こえなかった? ずっと呼んでるのに」
「……人違いじゃ、ないでしょうか」
「そんな訳ないだろう。なんでそんなこと言うの」
「だって……」
 掴まれた手は、まるで振りほどけそうにない。
 杉元くんこそ、どうして私だとわかったのだろう。普段の私と今の私の姿は、まるで違うのに。

 自分の顔が嫌いだった。顔中に散らばったそばかすも、腫れぼったい一重瞼も、顔のパーツひとつひとつ全てが好きになれなかった。
 だから私は大学に入ってすぐメイクを覚えた。どうすれば気になったところをカバーしていけるのか、それはもう熱心に勉強した。
 社会人になる頃、ようやく自分の顔が好きになった。もちろん、のことを、だ。
 見た目が変わると、周囲の人から受ける扱いも変わった。それを素直に受け止められるようになった頃出会ったのが、隣の部署へと配属された杉元くんだった。
 眩しいほどの彼の笑顔と優しさに、私はすぐに恋に落ちた。何度か食事に誘って、時には映画や動物園に行った。そうして付き合えることになったのは、ほんの二ヶ月前のことだ。
 私はまだ、彼に素顔を見せたことはなかった。だから、気付いて欲しくなかったのだ。いつもより気の抜けた服を着ている私に。メイクをしていない上、厚いレンズの眼鏡のせいで余計目が小さく見える、私のことなんかに。

「今日、急用が出来たんじゃなかった?」
「……」
「なんで、嘘つくの」
「杉元くんこそ、どうしてこんな所にいるの」
 彼の家は、この辺ではないはずだ。本当なら、今日は彼の家に遊びに行くことになっていた。教えてもらっていた最寄駅は、ここよりも三駅ほど先の場所のはずだ。
「ナマエちゃんの家に行こうと思ってた」
「どうして」
「前に一度、送ってきたことがあるから場所は知ってたから」
「そうじゃなくて、どうして? 私、急用が出来たって言ったじゃない」
「うん。だけど、多分本当は違うだろうなって思ったから」
「どういうこと……?」
 杉元くんは、私を気遣うように日陰へと誘導させながら口を開いた。
「昨日の仕事終わり、ナマエちゃんきつそうだったから。もしかして体調悪いんじゃないかなって」
「えっ」
「そう思ってたら案の定今日無理だって連絡きたから」
「……」
「どうして用事が出来たなんて嘘ついたの。体調悪いって正直に教えてくれないの」
 彼の琥珀色の瞳に、ほんのりと怒りの色が混じっている。見つめられるのが怖くて目を伏せた。
「杉元くんなら、看病行くって言いそうで」
「そりゃもちろん、今もそのつもりで来たよ」
「それが……嫌だったの」
「……迷惑だったってこと?」
「そうじゃなくて……っ」
 視線を落とした先、彼の手にドラッグストアの名前が書かれたビニール袋が目に入った。冷えピタやスポーツドリンクが袋越しに透けて見える。私が先ほど自分自身で買ったものたちとほとんど同じそれに、涙が滲んだ。
「こんな姿、見られたくなかったの」
「こんなって、どんな」
「こんな、スッピンでほとんど部屋着の状態をだよ。幻滅したでしょ、普段と全然違うから」
「幻滅なんて、する訳ないだろう」
「うそ」
 彼の顔を見れないままそう溢すと、彼は小さく一つため息をついた後私の顔を覗き込んで言った。
「普段のナマエちゃんは、確かにすごく可愛いよ。だけど今のナマエちゃんだって、俺にとっては可愛い大好きな俺の彼女だ」
「うそだ」
「嘘なんかつくもんか。それに俺、顔だけで好きになった訳じゃないんだけど? 一緒にいると楽しくて、困っている時は助けてあげたいんだよ」
「……」
「俺が怒ったのは、会えなくなったからでも嘘をつかれたからでもない。体調悪いのに頼ってくれなかったからだからね」
 恐る恐る顔を上げると、いつも以上に優しい顔をしながら杉元くんは笑った。大きな手がそっと私の手のひらを包み、家の方向へと歩き出す。
「俺、どんなナマエちゃんでも好きだよ」
 歩幅を合わせてゆっくりと歩いてくれる。君のその言葉を、信じてもいいですか。

診断メーカーのお題「振り返ることはできなかった」で始まり、「信じてもいいですか」で終わる物語。
お題から切ないのとか暗いのとかが浮かんだけど絶対ハピエンっぽい話にしたいなと思ってこういうお話にしてみました。
初出・2023/08/01