あなたを抱いて暗い海を游ぐ
月明かりに照らされた海は、神秘的だけどなんだかとても心許ない。昼間の喧騒とは打って変わって、寄せてはかえす潮騒の音だけが私たちを包む。
「昼間は暑いけど、流石にこの時間の海はまだまだ冷たいね」
「当たり前だろう。まったく」
パシャ、パシャンッと不規則に水の跳ねる音をさせて、私たちは並んで歩く。私が少しだけ先を歩いているせいで、並ぶ影は二人の背丈を同じにしていた。実際には私より少し背の高い基さんの方へと振り返る。月に背を向けた状態の基さんの表情は、ほんの少し暗くて読みづらかった。
「全身浸かったら風邪ひいちゃうかな」
「本気で泳ぐ気なのか」
「だって、せっかく水着を持ってきたんだもん」
ひらりとその場で回って見せれば、腰回りに申し訳程度についていたレースの布地がふわりと揺れた。私と彼以外いないこの場所では、こんな姿でだって恥ずかしくはない。もっとも、夜の海を選んだのはそのためではないのだけど。
基さんが海へ行きたがらないのは知っていた。昔交通事故で出来たという下腹部の傷が、どうしても水着を着ると隠せないからというのが彼の述べる理由だった。
あなたの大好きな大きなお風呂でだってそれは同じでしょう、と私は思うのだけど、風呂場では湯に浸かるギリギリまでタオルで下半身を隠しているしそんなには目立たないのだという。まあ、最近はもっぱら温泉目当てに旅行をしても、露天風呂付きの客室がある宿を取ることが多いからそんなには気にする事もないのだろうけど。
「夜の海なら、誰もいないと思わない?」
「危ないぞ」
「二人だから大丈夫よ、きっと。だってほら、今度行く旅館にはこんなに近くに海があるんだもの。少しくらいいいでしょ、ね?」
「……はぁ、全く。翌日の予定が全て取りやめになっても知らないぞ」
そうため息をつきながらも、基さんは私の望みを叶えてくれる。いつだってこの人は、なんのかんのと言いながら私には甘いのを知っている。
だからこそ私は、定期的に計画する旅行の行き先に、今回は
ようやく薄暗さに慣れてきた私の目が、見慣れた基さんの傷を捉える。なるほど、確かに海パンを穿いていてもウエストゴムの部分から覗く大きな傷跡はほんの少し目立ってしまうのかも知れない。
先ほど私がつけた足跡が波にさらわれる。なだらかになった砂の上にもう一度足跡をつけながら、私は基さんのそばへと近付いた。
「ほら、夜なら誰もいなかったでしょう」
「この水温と暗さなら、そうなるだろう」
「私たちふたりぼっちの世界みたいだと思わない?」
そう言ってそっと彼の傷を指先でなぞる。ぴくりと基さんは身体を震わせ、呆れたようにため息をついた。それを聞いて私は大人しく手を引っ込めて、彼に背を向ける。
「……ごめん。そんなに嫌だった? ため息つくほど?」
「そういうわけじゃないが」
「いいよ、先に宿に戻ってても。私も少しだけ泳いでみたら、すぐに戻るから」
「あ、おい」
「大丈夫、すぐに戻るから」
パシャパシャと跳ねるような音は、ザブン、バシャン、と少しずつ重みを増していく。波が太ももの高さまで来ると、少しずつ肌が粟立つのを感じた。やっぱり、少し早まったかな。
急な寒さで心臓が驚かないように少しずつ身体を水温に慣らしていって、それから私はゆっくりとその身を海に浮かせた。波の動きに身体を預け、そっと目を閉じた。基さんが、砂浜の上から私の様子を見守っているのを感じる。
ちっとも深さを感じないその場所で、私は意を決して顔を水面につけ潜ってみた。耳に響いていた波の音が、より一層くぐもった状態で鼓膜を揺らす。
手足を伸ばせばしっかりと地面に届くのを確認しながら、私はしばらくそうやって水の中に身体を閉じ込めていた。
息が苦しくなってきた頃、波の音とは違う激しい水の音が近付き慌てたように私の名前を呼ぶ基さんの声が聞こえた。
その声に導かれるように顔を上げ、肌に張り付いた髪をどかして、水滴を両手で払っていく。
「おい、大丈夫か!?」
「けほっ……うん、大丈夫だよ」
「あんまりにも上がって来ないし静かだから、溺れたんじゃないかと思った」
「えへ、結構潜るの得意なの」
「……ったく」
びしょ濡れになった髪を指先でまとめていると、基さんが私の身体を抱き寄せた。先ほどまで水に浸かって冷え切っていた身体が、彼の体温によって温まっていく。
「また、海の底に奪われるのかと思った」
先ほどまでの距離感ならば波にかき消されて届かなかったかも知れない小さな声、だけど抱き締められたこの状態ではしっかりと耳が拾い上げてしまった。
――
ああ、やっぱり。あなたも思い出していたんだね。
彼の言葉を噛み締めるように目を閉じて、ゆっくりと彼の背中に腕を回す。何度も何度も、抱き着いたあなたの体。もう、何年も前から、ううん、百年以上前から、重ねていた体。
前世なんて、信じていなかった。だから数ヶ月前、突然脳内に溢れ出した見覚えのある景色たちと一緒に住む恋人の顔が重なった時には、吐き気を覚えたほどだった。
過去にも、色んな縁があって夫婦であった、現世での恋人。あの頃は、恋愛の末の婚姻ではなかった。私から彼への愛はあったけれど、だけど軍から勧められたままに契りを結んだ、形ばかりの夫婦だった。彼にはずっと、心に棲まう人がいたから。
大切な人を二度にわたって海に奪われたと、あの時代の彼がポツリと話してくれたことがある。一人は過去に愛した女を、もう一人は全てを捧げる決意をした上官を。その後、鯉登中将のおそばに最後まで仕えはしたけれど、彼の中にその二人が根強く棲み続けているのは聞かずともしっかりと伝わってきていた。鯉登中将も私も、それをわかっていながら、それでも今そばにいるのは私たちですものねとたまに食事を共にした時に話したものだ。
現世では、私は基さん以外の人物と再会していない。きっと基さんもそうなのだと思う。運が良く私たちは再会できた。記憶はなくても、惹かれるものがあったから、こうして恋人になれた。
それでも彼に、前世の記憶があることを伝えるのは怖かったし、記憶があるかどうかを確かめるのも怖かった。
もし、あの頃の延長線で、惰性で私と共にいてくれたとしたら。もし。……もし、例の彼女と、現世でも再会してしまったら。
この数ヶ月の間、そんな事を不意に思い浮かべては気が狂いそうだった。知りたくなかったけれど、確認しておきたかった。矛盾した心がずっと私の心にこびりついて離れなかった。
ああ、だけど。
「また、奪われるかと」と、そう彼は言った。大事なものを過去に奪われたと言っていた彼が、私のことまで奪われることを恐れてくれたのだ。
それだけで、十分じゃないか。この数ヶ月、荒れ狂う海のようだった心が、静かに凪いでいくのを感じる。
「……大丈夫か? 寒くて、体がおかしいのか?」
あまりにも黙ったままの私を心配したように、基さんが身体を離して顔を覗き込んだ。心配そうな顔が嬉しくて愛おしくて、私は離された身体にもう一度寄り添って腕を回し、そしてそのまま海へと引きずるように身体を倒した。
「わっ、おい、こら!」
「ふふふ、冷たいね」
「まったく、何してるんだ」
「この中だったら、抱きしめあってても寒いままね」
水中の浮力を利用して、彼に抱きついたまま身体を再び波に預ける。片手でゆっくりと水をかき分けながら、陸が見える位置へと方向を変えた。
「立てば足が付く深さだぞ」
「そうだけど、せっかくの海なんだから泳ぎたかったの」
「……ったく、あと少しだけだぞ。そうしたら、すぐ宿に戻って部屋の風呂に直行だ」
「うん、そうしよう。とびっきり長風呂して、それから美味しいお酒を飲もう」
「あぁ」
呆れたように笑う彼の顔を見て、唇にキスをひとつ落とす。海水で塩分たっぷりのキスは、これ以上にないほどしょっぱくて笑ってしまう。
「唇、冷たい」
「誰のせいだ」
「ごめんなさい」
彼に回した腕を解いて、代わりに大きな手のひらを握る。そうして陸へと向かって少しだけ游ぎ、立ち上がって歩き出した。
ざざぁん……と言う潮騒の音の合間に、ふたり分の水を蹴り上げ歩く足音。その音にかき消されそうな程の音量で私は小さく呟いた。
「あなたを一人置いて、海に沈んだりしないから安心してね」
「……何か言ったか?」
「ん。わがまま聞いてくれて、ありがとうって言ったの」
「お前のわがままには、慣れたもんだ」
あの頃とは比べ物にならないくらい、穏やかな顔をして笑う彼の表情に不意に涙が溢れそうになる。身体が冷えたせいだと誤魔化して、私はすんっと鼻を啜った。
だけど覚えていてね。
もしも、あなたがあの子と再会して、そしてその子を選んだら。私はこの身を海へ投げてあげるから。
ああ、また海に奪われたと、その時は一生後悔してね。
そんなほんの少し意地の悪い思いは、彼に伝わることもなく、私の胸の中で静かに波打った。願わくば、そんな日が一生訪れませんように。
砂浜に残した足跡が漣にさらわれていく。ゆっくりと繰り返す波の音だけが、私たちを包み込んでいた。
タイトルそのままのお題がアンケで一番多くて「あーもうこのお題は絶対月島さんじゃん」と思いながら書きました。
仄暗い純愛と思ってます。結構気に入ってる作品です。
初出・2023/03/09