乗り過ごしにはご用心
あ、あの人だ。こんな時間なのに、珍しい。バスに乗り込むなり私は運転席を見てそう思った。
今の会社に転職して半年あまり。長年電車通勤だったが、それを機にバス通勤に切り替えた。会社のすぐ前にバス停があって、しかも運よく家の最寄りからも乗り換えなしで行くのだから、切り替えない手はない。その分、少々長い時間乗ることにはなるのだが。
「発車します。お立ちの方は、吊り革にお捕まりください」
低く心地よい声が車内に響く。
いつも通勤時には音楽を聴いていたが、一度イヤホンを忘れてしまった際あまりに車内アナウンスの声が好みで思わず運転席付近に設置されているミラー越しに運転手の顔を確認してしまった。
坊主頭に帽子をきちんと被り、キリッとした眉に鋭い瞳の運転手がそこにはいた。少し低い鼻先にイヤホンマイクが伸びている。次の停車バス停を知らせるアナウンスをそこに向かって発している姿をじっと見つめていると、不意にミラー越しに目が合った気がして慌てて逸らしたものだった。
あの日から、通勤中にイヤホンをつけるのはやめるようになった。もっとも、違う運転手の時は相変わらず音楽を聴きながら通勤しているのだが。今まで気付かなかったけれど、私ってもしかして声フェチというやつだったのだろうかと思いながら、バスに揺られアナウンスの声に耳を傾けていた。
バスの運転手にも様々な人がいる。運転が少々荒い人、のんびり安全運転過ぎて乗客をむしろイライラさせる人。その人の性格が出るものなのだろう。
私のお気に入りの運転手さんは、よほどの渋滞がない限りしっかりと時間通りの運行をしている。だけど決して運転は荒くなく安全運転で、そのくせ乗客ファーストを心がけているんだろうなというのが日々の細やかなやり取りで伝わってくる。
例えばそう、こんなに暗い中なのに慌ててバス停まで走ってくる人の姿をミラー越しに確認するときちんと待ってくれる。最終バスだもの、乗り遅れると大変だもんね。無事に間に合ったサラリーマンを横目に、目の前の座席が空いたのを確認して私も座り込んだ。たいして飲んでいないとはいえ、お酒の入った体で立ったまま長時間バスに揺られる自信はなかった。
会社のすぐ近くの居酒屋で仕事の話という名の説教を聞かされていた。せっかくの週末、今日は早く家に帰って録り溜めているドラマを見て過ごしたかったのに。
だけど溜まっていた鬱憤も、バスに乗った瞬間少しマシになった。耳障りのいい車内アナウンスを聞きながら、心地よい振動に身を預け私はゆっくりと目を閉じた。あぁ、このままだと寝てしまいそう。ちゃんと最寄りで降りなくっちゃ――
そう確かに思っていたはずなのに、私の意識は自然と遠のいていった。
……――さん……くさん。お客さん!
何度もあの人の声がして、乗客の誰かが忘れ物でもして慌てて呼び止めているのだろうかとぼんやりと戻ってきた意識で考えていた。確かめたいのに、重たい瞼をなかなか開けられないままでいると、トントンと肩を叩かれ思わずびくりと体が震えた。
「へ、わ、えっ!?」
「申し訳ございません。降りる場所ではないかと思いまして……大丈夫ですか?」
あんなに重たかった瞼は勢いよく開き、そのまま固まってしまった。瞬きをするのも忘れて目の前にいる人物を見つめ、それから周囲を見渡し状況を整理した。乗客は私一人、そして窓の外には見慣れた風景。いつも利用しているバス停にすっかり到着していたらしい。
「わ、うそ! すみません、私、寝ちゃってて……ありがとうございます! すぐ降ります!」
「いえいえ。もうこの辺りから乗る人もいないでしょうし、ゆっくり降りてもらって大丈夫ですよ」
スタスタと運転席へと戻っていく後ろ姿を眺める。いつも座っているから気付かなかったけど、運転手さん思ったより背が低いんだな。いやそれにしても筋肉すごくない? 何あの背中、分厚過ぎる……
彼の姿が運転席に完全に消えてしまって、私はまた我に返って立ち上がった。定期券をかざしながら、改めて運転手さんに頭を下げる。
「ご迷惑おかけしました! ……でも、よく分かりましたね。ここで降りるって」
「あぁ……いつもご利用いただいているので、なんとなく。気持ち悪かったら、すみません」
「とんでもないです! 助かりました。いつもありがとうございます」
こちらこそ、そう言った彼が少しだけ微笑んだように見えて心臓が跳ねた。今まで声しか気にかけてなかったけれど、どうしよう全てが素敵に見えてきた。お酒のせいなんだろうか。
降りる直前、その時になって初めて私は乗降口の上の方に書いてある運転手さんの名前を確認した。月島さんというらしいその人に、バスを降りてもう一度頭を下げる。静かに発車していくその車体を見送った後、先ほどまでの鬱憤とした気持ちが完全に吹き飛んでいることに気付いた。
朝のバス、また月島さんだったらいいな。普段ならば憂鬱な月曜日の朝がほんの少し待ち遠しく思いながら、家へと向かって歩き出した。
自分がバス利用が多いのでどうしても電車よりバスの描写使うことが多いです。
恋愛要素はないですが、こんなバス運転手いたら毎朝バス通勤するのも楽しくなりそうです……へへ
初出・2024/01/27