リベンジさせてね
カツカツと近付いてくる足音が聞こえてチラリとデスクトップの右下の時間を確認した。時刻は十六時半、退勤予定時間の三十分前だ。
「ごめん、ミョウジさん。こっちの案件もお願いしたいのだけど」
「すみません、それ明日でも大丈夫でしょうか」
先輩が言い終わるのに被せるように私が振り向きながら確認すると、一瞬先輩は面食らった顔をしたが一度書類に目を落として頷いた。
「え? えぇ、大丈夫よ」
「わかりました」
差し出された書類を受け取ってぱらりと目を通した後、「未処理/急ぎ」と分類しているボックスに入れて私は再びデスクトップに向かった。定時まで残り二十七分。なんとしてもこの仕事を片付けて、今日は残業をせずに帰りたい。むしろ定時を迎えた瞬間にダッシュで帰宅したいのだ。
なぜなら今日は基さんのお誕生日で、私にとってお祝いリベンジの日だからだ。
***
今年は前祝いにしてもいいかと提案したのは私だった。カレンダーを見て、基さんの誕生日が月曜日だと気付いた瞬間に当日のお祝いは難しい気がしたのだ。元々年度初めであり月初めである四月一日は忙しいのだが、加えて週の初めというのは雑務が重なって思うように仕事が進まない事が多い。三つの“初め”が重なるならば、恐らく残業は免れないだろう。
「別に無理に祝う必要はないからな」
基さんはそう言ったけれど、せっかくだから土日を使って温泉旅行にでも行かないかと提案すると悪い気はしないようだった。お風呂が好きな基さんが喜んでくれる場所をと私は張り切って宿探しをした。
時期的にもちょうど開花する頃かもしれないと思って、桜が綺麗な宿を予約した。部屋には露天風呂もついており、夜桜も綺麗に見えるらしい。写真映えするからか女性人気も高く、料理も美味しいとの口コミも多く見受けられた。
二人でお出かけをすることはあるけれど、泊まりがけでと言うのは久しぶりなので、私はとても楽しみにしていた。
だが、待ちに待った当日。思えば朝から雲行きは怪しかった。
前々から何度も確認していた桜の開花予報と天気予報では、その週末は最高のタイミングのはずだった。「四月に入ると雨続きなので、お花見は週末のうちに行くのがおすすめです」と言うお天気アナウンサーに罪はない。だけど、宿に着いた瞬間車のフロントガラスを叩きつけ始めた水滴に、思わず彼女の朗らかな笑顔を思い出してうそつきと心の中でつぶやいてしまった。
荷物が濡れないように抱えながら宿に入ってチェックインの手続きをしている間も、雨音は強くなるばかりだった。観光というよりも宿でゆっくり過ごすことを目的にして早めのチェックイン時間にしたというのに、外はもう夜のように暗かった。
「本日はお足元の悪い中、ありがとうございます。お部屋の方ご案内いたします」
そう案内してくれた仲居さんはとても美人であったが、少し冷たい印象を受ける接客の人だった。部屋へ案内され食事の時間帯や場所を事務的に伝えられ、仲居さんが部屋を後にしようとした瞬間に部屋の窓から強い光が差し込んだ。少し遅れて、ゴロゴロゴロゴロと大きな音が鳴り響き心臓が少し跳ねる。
「今の、結構近かったな」
「そうだね、びっくりしちゃった」
基さんと二人で顔を見合わせていると、仲居さんが再び戻ってきて頭を下げた。
「恐れ入ります。お部屋についている露天風呂ですが、近くに大きな桜の木がございまして……」
「? はい、そうですね」
自分自身が希望して予約した部屋なので理解しているつもりだったが、改めて説明されて首を傾げていると基さんが「あー……」とつぶやいた。それと同時にまた強い光と音が部屋を包む。
「大変申し訳ないのですが、万が一の事故防止のため、雷雨の間はご利用を控えていただくよう皆様にお願いしております」
「え、あー……そ、っか。そうですよね。危ないですもんね」
私がそう答えると、少し安心したような顔を浮かべた彼女は大浴場の場所も案内して部屋を去っていった。滅多にはないことだろうけど、こういう日に同じ説明をするとごねるお客さんもいるのかもしれない。
「……天気予報、外れちゃったねぇ」
「まあ、そういう事もあるさ」
「せっかくの部屋風呂がぁ……」
「一緒に広い風呂に入るの、楽しみにしてたんだが仕方ないな」
二人で住んでいる部屋のお風呂は小さいので、一緒に入ることはほとんどない。私だって楽しみにしてたよと膨らませた頬を基さんが軽くつねって「まあとりあえず荷物整理してお茶でも飲むか」と立ち上がった。
雷雨だけにとどまらず、その旅行はなんとも微妙なものになった。少しくつろいだ後に入った大浴場のお風呂は、確かに気持ちよかった。ご飯ももちろん、口コミ通りとても美味しかった。だけど、食事が終わった後の基さんの顔を見ると、この量はちっとも足りてないんだろうなぁというのが伝わってきた。そういえば、口コミサイトには「美味しいし量もちょうどよかったです」という
極め付けは夜だった。食後に宿の売店でお土産選びをし、まだ満足していない基さんのお腹を満たすためのおつまみとお酒を買って部屋へと戻った。いつの間にか敷かれた二つ並んだ布団を避けて、窓際に設置された小さな机に買ったばかりのお酒たちを並べる。まだ時折稲光が走る外を見ながら、私たちはそれを口へと運んだ。
「なんか、ごめんね色々」
「ん?」
「ご飯、美味しかったけど基さんには全然足りなかったでしょ」
「まあ、でもこういうところのはそういうもんだろう」
「部屋風呂も入れなかったし」
「自然現象は仕方ないだろう。気にするな」
「でもぉ……」
せっかくだから、もっといい状態でお祝いしたかった。そう唇を尖らせるとそっと基さんの唇が重なった。
「ナマエと過ごせるだけで、俺は嬉しいよ」
「それは、でも、毎年そうでしょ」
「こんな旅行もいつか笑い話になるさ」
そう言った基さんの唇が何度も降ってきて、お酒の味とほんのちょっとの塩気が口の中に広がる。色気がないなぁ、なんて笑いを漏らしながらもほんのり酔いが回り出した私もそれに応えた。自然と深くなるキスに身を預けながらゆっくりと布団へと移動した。
地面を叩きつけるように振り続ける雨音と地を揺らす雷鳴の中、私たちの唇が触れては離れる音が部屋を満たしていく。
「浴衣姿、珍しくてそそるな」
「ふふ、たまにはいいね」
するりと襟から滑り込んだ手がくすぐったくて身を捩ると、基さんの動きがぴたりと止まった。脱がせ方がわからないわけでもあるまいしどうしたのだろうと顔を見れば、しまったという表情の彼が項垂れている。
「ど、どうしたの?」
「……忘れた」
「え?」
「ゴム、持ってくるの忘れた気がする」
体を起こして荷物を確認しに行ったけれど、やはり避妊具は持ってきていないようだった。もちろん、私も用意してきてはいない。宿に到着する少し前にコンビニは見かけたが、この雨の中歩いていくのは酷な距離だったと思う。お酒が入っているから、車を出すことも叶わない。
そのままでもいいよと喉から出かかったが、きっと彼はそれを拒絶するとわかっていたから飲み込んだ。一度だけつけずにした事があるが、その後は頑なに避妊具をつけている。いつどんな時でもだ。
はぁーと大きなため息をついた基さんは私の前へと戻ってきて、そして少しだけ乱れた浴衣の襟をなおした。
「……飲み直すか」
「……ん」
すっかりその気になっていた私自身の体も、その熱を覚ますように冷たいお酒を飲み干して誤魔化した。
そうして早々に夜は何もせずに眠りについた。翌日は昨夜の雨はなんだったのやら、綺麗に晴れた青空だった。部屋から見える桜は、雨の中頑張って持ち堪えはしたもののかなり散ってしまったように見えた。
朝食はバイキング形式ではなかったが、小鉢がたくさん並んだ旅館の和朝食だった。やはり基さんには物足りない量にも感じたが、昨夜と違ったのはご飯のおかわりが出来たことだ。昨夜の食事では旬の食材を使った炊き込みご飯でおかわりは不可だったのだ。
「うん。ここの料理はどれも美味しいな」
満足そうに言いながら三杯目も半分となってきたご飯を頬張る基さんを見て、頬が緩むのを感じながらコーヒーを飲み干した。
チェックアウト予定時間ギリギリまでくつろいで宿を後にした。少しだけ寄り道をしながら帰路についたのだった。
***
バタバタと定時退勤した後、バス停までも小走りで向かった。目的のバスがちょうど走ってきたので慌てて飛び乗り、それから基さんへとメッセージを送った。
『お仕事お疲れ様。今日は残業になりそう?』
それだけ送った後、帰宅後に少しでも手際よく準備を進められるよう脳内シミュレートを続けた。バスを降りる頃、彼からメッセージが返ってくる。
『少しだけ。でも一時間もかからないと思う』
『わかった。職場を出る時、また連絡ください』
私たちの勤務時間はちょうど一時間ずれている。そして基さんの職場から家までは約三十分。タイムリミットまでは、後二時間弱と言ったところか。そう計算してバスを降り、早足で帰宅した。夕方には少し肌寒くなるかと思ったのに、動き回ったせいでブラウスに汗が滲みそうになっていた。
家へついて服を着替え手を洗い、私は早速キッチンへと立った。朝しっかりセットしてきていた炊飯器がちょうどご飯の炊き上がりを告げる。まずはグリルにシャケの切り身を並べて焼き始めた。次に揚げ物鍋を取り出して油を温めながら、冷凍庫から揚げるだけでいいエビフライを取り出す。今朝漬け込みをしておいた唐揚げも冷蔵庫から取り出してバットに衣の用意をした。ちょうどいい温度になったのを確認して、エビフライから揚げていく。合間合間にレタスやミニトマトを洗って水切りをして、また揚げ物の様子を見てとキッチンのあちこちを行ったり来たりした。
全ての揚げ物を終えたところでウインナーを焼き、それから卵焼きを焼く。食材の彩りに緑が足りない気がしたのでネギ入りにした。それを冷ましながら、焼けたシャケの身をほぐしていく。
基さんから職場を出たというメッセージが届き、慌ててご飯をボウルに移しておにぎりを握った。具は先ほどほぐしたシャケとゆかりふりかけ。もちろん塩だけで握ってのりを巻いたものも。
残り二十分ほど。後もう一品くらいならいけるかとちくわとチーズときゅうりを取り出して中にそれぞれ詰めていった。そうして出来上がった料理たちを、急いでプラスチックの容器に詰め込んでいった。二人分のおかずとおにぎりがたくさん詰まったそれらをバッグに入れて、窓の外を覗いた。日はすっかり落ちている。だけど少し歩いたところにある公園は、ライトアップまではないけれど街灯が灯っていて夜桜を見るには問題ないだろうというのは昨夜旅行から帰ってきた後のお散歩で確認していた。その途中にあるケーキ屋さんが、今日は休みでないこともバッチリ確認済みだ。
ガチャリと玄関の鍵を開ける音が聞こえて、私は駆けていった。扉を開いた基さんに先ほど用意したバッグを掲げる。
「おかえりなさい、お誕生日おめでとう! お花見、リベンジしませんか?」
「……なるほど、昨日からなんか下準備してると思ったら、そういうことか」
「あそこのケーキ屋さんで小さなケーキも買って、このお弁当食べましょ。外もう寒い?」
「少しな。ちゃんと上着羽織っていけよ。一回手だけ洗ったらすぐ行く」
「あ、もしビールも欲しかったら冷蔵庫から出してきてねー!」
サプライズのつもりだったけど、基さんにはお見通しだったのかもしれない。手を洗った後、普段は奥の方にしまってあるはずのビニールシートをすぐに取り出してビールと共に持ってきた彼を見ながら頬が緩む。
この辺りも先日の雨で少し桜は散ってしまったけれど、それでも十分なほど綺麗だった。ショートケーキが二つ入ったケーキの箱と、お弁当の入ったバッグとを抱えて夜道を歩いていく。
「来年はもっとちゃんとお祝いできるようにするね」
「十分だよ。俺にはこれで」
そう言いながら缶ビールを煽る基さんの横顔を見上げる。来年もその先も、こうして隣でお祝いさせてね。クシャリと皺の入った彼の鼻にそんな事を思いながら、夜道を歩き続けた。
かつ、金カ夢一本勝負「おめでとう」というお題に合わせて掲載しました。
初出・2024/04/07