変わらない街の中で

 からん、ころん。聞き慣れた懐かしい音が耳に届いて、私は体を起こした。カウンターの窓から少しだけ身を乗り出して音がする方へと顔を向ける。肌寒くなっているというのに素足に下駄で、その人はこちらへと向かってきていた。
「おう、ミョウジか。久しぶりだな、帰ってきてたのか」
「月島先生。はい、昨日から。お久しぶりですね」
「昨日帰ってきてもう店番か、感心だな」
「人使い荒いでしょ。先生、まだ同じの吸ってるの? これだっけ?」
 ゴソゴソと棚からタバコの箱を取り出すと「よく覚えていたな」と月島先生は目を丸くした。先生、少し老けたなとその顔を見て思う。そりゃそうだ、もう出会ってからゆうに十年は経っている。最後に会ったのは三年前、お互い多少は見た目も変わっているはずだ。

 月島先生は、私が中学三年生の時に新しく赴任してきた英語の先生だった。教師になりたてほやほやのの頃の先生は今みたいに髭は生えてなくて、背も低いし顔もどこか幼いから「生徒に紛れてもバレなさそう」とよく揶揄われていた。
 そんな先生が実はヘビースモーカーなんて、クラスの子達はみんな知らない。なぜ私が知っているかって、たまに店番をする祖父母のタバコ屋で先生がよくタバコを買って行っているからだ。
 家にもお風呂があるらしいのに、週に一度は銭湯へ足を運んでその帰り道にうちへと寄ってタバコを買って。毎回私が店番をしていると「他の奴らには内緒な」と銭湯で買った紙パックのいちごミルク――本当はフルーツ牛乳の方が好きだったけど、、瓶入りの分は店に返却しないといけないから持ち出せなかったらしい――をそっと私に賄賂として差し出した。
 私が言わなくたって、纏う匂いでバレそうなもんだけどと思っていたが、不思議と学校にいる時の月島先生からはタバコの匂いはしなかった。教頭がうるさい人だったから、結構気を遣っていたのかもしれない。
 中学を卒業しても、店番をしていれば月島先生とはよく顔を合わせていた。もう口止め料はいらないのに、必ずと言っていいほどいちごミルクを片手に先生が現れるのを楽しみにしていた。だから私は店番をするのが嫌いではなかった。
 多分私の初恋は、月島先生だったから。

「しまった。いると思ってなかったから何も買ってない」
「先生、まだ私がいちごミルク好きだと思ってる?」
「違うのか」
「いつまでも子供じゃないよ。それにもうこの時期は寒くて、冷たいものよりあったかいものばっかり」
「そうか」
 ざりざりと触り心地の良さそうな坊主頭に手を当て、先生はこれは失礼と柔らかく笑う。
「先生は、相変わらずだね」
「うん?」
「こんなに寒いのに下駄でさ。お風呂行って来たんでしょ? せっかく温まったのに風邪ひいちゃうよ」
「あぁ、うん」
 お風呂上がりに靴下を履くのが嫌いなんだ。以前そう言った先生を思い出す。気持ちはわかるけどね。でも、そう言いながらからんころんと鳴らす足音が私は好きだった。
「そうだ、どうせ誰もいないし、先生ちょっとこっち上がってよ」
「え?」
「人生相談したいの。もし時間があれば。いいお茶もあるし淹れてあげる」
 こっちこっちと手招きして扉を開けると、先生は躊躇ったように周囲を見渡しながらその扉を潜った。木で出来た丸いすを差し出して、電気ケトルにお水を入れる。時折カウンター越しの外を気にかけながらお茶を淹れる準備をする。
「……ストーブ、なくなったんだな」
「あの古いやつでしょ。おばあちゃんがね、もう腰が悪くて。灯油入れるのも大変なんだって」
「そうか……」
 ケトルがコポコポとお湯を沸かす音をさせる。昔は石油ストーブの上にやかんを乗せておばあちゃんがよくお湯を沸かしていたのを思い出す。
「おじいちゃんが先に亡くなって、おばあちゃん一人でこの店守ってたけど、もう足腰悪くて結構色々厳しいみたいで」
「なるほどなあ。最近店、閉まってる事も多かったもんな」
「やっぱりそうなんだ」
 父も母も、それぞれに仕事を持っている。この店は畳めばいいと、そう言っている。だけどこの店が好きだった私は、なんだかそれに抗いたくて帰ってきた。
 カチリと音がして、ケトルの電源が切れる。沸いたお湯を湯呑みに注ぐと顔に湯気がまとわりついた。
「店、閉めるのか」
「……わかんない。でも、そうなっちゃうのかもなぁ」
「ミョウジは、どうしたいんだ」
「どう、したいかぁ」
「人生相談って、そう言う事じゃないのか」
「すごいなぁ、先生ってなんでもお見通しだねえ」
 少し冷ました湯呑みの中身を急須へと移す。また湯気が私の顔へとのぼる。じわりと瞼についた雫も、鼻を啜りたくなるのも、きっとこの蒸気のせいだ。
「今ミョウジ、仕事は何してるんだ?」
「翻訳の仕事。先生のおかげで、私英語好きになったからね」
「そうか」
「パソコンと資料さえあれば多少はなんとかなるからと思って、こっちに今は帰ってきてる」
「今後もそれじゃなんとかならないのか」
「うーん、どうかな」
 この店は残したい。おばあちゃんの事も心配。だけど私には、地元に帰ってくるのにまだ迷いがある。踏ん切りがついていない。どうしたらいいのかわからない。そんな事を、お茶を差し出しながらぽつりぽつりと話す。
「……もしかして向こうに、いい人がいるとかか?」
「ううん、それは全然なんだけど」
「そうか」
「……そういや、先生は? ここでこんなことしてて、奥さんとか彼女に怒られない?」
「残念ながら俺も独りの身だ」
 笑って話す先生に、どこかでホッとする。そっか先生、独身なんだ。
「こっちでいい人がいたら、もっと踏ん切りつくのかな」
「さあ、どうだろうな。田舎だしなぁ……あぁ初恋の人とかいないのかこっちに」
 突然振られた話題に思わずお茶をむせそうになる。いるよ、今目の前に。
「まあそんな理由だけじゃ、帰ってくる理由としては弱いか?」
「……いいと思う? それも理由の一つで」
「ん?」
「お店のことも、おばあちゃんのことももちろん理由だけど。忘れられない好きな人がこの街にいるから、って理由で戻ってくるのも、いいのかな」
「いいんじゃないか。と、まあそんな簡単に言っていいのかわからんが」
「……先生」
「ん?」
 片手で湯呑みを持ち、お茶に口を付けようとした先生が動きを止め私へと視線を向ける。真っ直ぐに目を見れなくて俯きながら、私は一度小さく深呼吸して言葉を続けた。
「先生がいるから、この街に帰ってこようかなって私が言ったら、どう思う?」
 湯呑みから上がる湯気の向こうで、キョトンとした顔の月島先生が固まる。ゆっくりとその意味を理解した先生の顔が、少しづつ赤くなっていって、まるで先生から湯気が出ているようだった。

 結局のところおばあちゃんは頑固として店を畳まないと言い張って、営業時間を短縮しながらも治療やリハビリをしながら店を続けた。私は今まで通りの場所で今まで通り仕事を続けていいと言われたけれど、地元に戻る覚悟を決めた。翻訳の仕事を続けながら、おばあちゃんの店も相変わらず手伝っている。変わらない街の中で少しづつの変化を受け入れながら私は生きていくのを決めた。
 大きく変わったことといえば、一つ。
「先生、今日もいつものでいい?」
「うん……なぁ、」
「ん?」
「そろそろその、先生ってのやめてくれないか。なんだか悪い事してる気分になる」
 そう言って相変わらずの坊主頭を撫でるこの人と、恋人になって、もうすぐ夫婦になるってこと。

初出・2024/11/24
金カ夢一本勝負「湯気」にて。
お風呂上がりの月島さんをまず考えたけど、一緒にお風呂行ってない限り湯気と月島さんは見れないじゃんと思いつつ。
チャットモンチーの湯気という曲が好きなので、どうしても湯気=やかんと連想してしまいました。
結局、やかんは出てないんですが。