ごはんとみそしる。
早まっただろうかと、今更ながら思う。じっとしていられなくて、用もないのに厨房の中を行ったり来たり繰り返していた。
今日の分の片付けも終わり、明日の分の仕込みも終わっている。いつもなら早々に店を閉めて帰っている時間だ。調理台に置いてある小さなデジタル時計を見た後で、店内の壁に掛けてあるアナログ時計をチラリと見る。どちらも電波時計ではないから数秒のずれはあるが、ほとんど同じ時刻を指している。あの長針が、もう少し前進したら。示す数字が、00と並んだら。その時訪れるであろう人のことを考え、いや本当に来てくれるのだろうかと何度も考えた内容をまた巡らせながら、そわそわと冷蔵庫を開ける。すでに下ごしらえを終えた食材が、これで何度目の確認だと問うてきそうなほど先ほどと変わらぬ様子で陳列されている。
まったく、落ち着かなくちゃ。そう息を吐いて冷蔵庫をパタンと閉めると、背を向けていた店のドアがカチャン、と音を立ててゆっくりと開いた。心臓が一瞬跳ね上げたのを感じながら、もう一度そっと息を吐き、意を決して振り向く。
「いらっしゃいませ」
いつもの営業スマイルを顔に貼り付け、お客様を迎えるのと同じようにそう発する。入ってきた男性は、予想していたより小柄で、だけど想像以上にがっしりとした体躯だった。
「どうも。こちらから入ってよかったですか?」
綺麗に整った坊主頭を僅かに下げ、表情を特に変えることもなくそう聞いてきたその人に私は頷いて答える。
「大丈夫です。ええと、すみませんお話に入る前に先にシャッターだけ下ろしてきてもいいですか?」
「ああ、はい」
普段はこの時間閉じきっているシャッターを、今日はこの男性のために少ししか下ろしていなかった。CLOSEの札は掛けてあるから誰も入ってくる事はなかったが、常連さんが珍しそうに窓からちらりと覗いている姿を一度見た。もしまた同じようにされて、こんなところを見られるのはちょっと困る。
「どうぞ、あちらの席に掛けてお待ちください」
四人掛けのテーブルを案内してからシャッターを閉めるためにドアを開ける。幸い店の前にはほとんど人通りもなく今のこの数分のやり取りは見られていないだろう。もちろん、見られたとしても業者の人だと言えばいいだけで、やましいことではないのにドギマギしてしまう。
業者。そもそもその言葉が適切かもわからない。だって、彼は
なるべく大きな音を立てないように慎重にシャッターを下ろしてから、もう一度だけ深呼吸をして、店の中へと戻る。何度も脳内で繰り返し練習した今回の依頼内容を思い出しながら、改めて先ほどの男性の前へと向かった。
「お待たせしました。今、お茶を出しますね。それともコーヒーがいいですか?」
「どちらでも。あ、ただ冷たいのだとありがたいです」
男性は、ピッタリとした半袖のTシャツを着ていて少し汗ばんでいるように見えた。日によっては涼しい風が心地よく吹いてくる季節になったが、それでも今日はどちらかといえば暑い方だった。筋肉質の人は暑がりが多いと聞いたことがあるし、この人もそうなのかもしれない。Tシャツから覗く二の腕――いやこの場合、上腕二頭筋と言う方が適切な気がする――の逞しさにそんな事を思いながら、氷を多めに入れたグラスに麦茶を注ぎテーブルへと運んだ。
「どうぞ」
「ありがとうございます。えー……改めまして、今回はご依頼、ありがとうございます。レンタルこわい人サービスから来ました、月島と申します」
「月島さん。こちらこそ、依頼を受けていただきありがとうございます。この店を経営しているミョウジと言います。この度はよろしくお願いいたします」
椅子に座ったまま、お互いに軽く頭を下げる。額にも汗が浮かんでいるのを見て、まずはお茶どうぞと勧めると月島さんと名乗ったその人は「では遠慮なく」と麦茶を口に運んだ。一口二口飲んだ後、それではと彼が切り出す。
「メールでも内容は書いてありましたが、今回の依頼についてもう少し詳しくお伺いできますか」
「はい。すみません、わざわざ一度店に足を運んでいただいて」
「いえ、それは。どの道この近くに用がありましたので。ただ、時間に限りがあるので、短い時間での打ち合わせとはなりますがよろしくお願いします」
あんなに脳内で練習したのに、いざ話し始めようとすると何から話すべきか、こんな事を頼んでいいものかとまた考えてしまう。ええい、ままよ。そう勢いづける為に麦茶で喉の渇きを潤してから、私は口を開いた。
*
この店を始めたのは、ちょうど一年ほど前になる。元々飲食店を開くのが昔からの夢で、学生時代のバイトも含めいくつかの飲食店で働いてきた。その時に独立して焼き菓子と雑貨の店を開いていた知人が、新たにもう少し大きな店舗を開くことになったと居抜きで譲ってもらったのがこの店舗である。
朝と昼だけの営業で、カウンターに四席と、四人掛けのテーブルが一つに二人掛けのテーブルが二つ。全て埋まっても十二人ほどの小さな店ではあるけど、地道に常連のお客様も増えてきていてそれなりに上手く切り盛りできていると思う。
従業員は私と、それから二つ年上の実の姉。社内恋愛からの結婚を機に仕事を辞めたタイミングでこの店の話が出てきたから手伝ってもらっている。だけどその姉も、今妊娠して少しの間お休みしてもらっている。つわりが酷く、料理中の匂いで気持ちが悪くなってしまうということだった。
そんな訳で、私の長年の夢だった店を、今は一人で営業している形になっている。元々満席になることも少なく、またメニューも日替わりのものが二つだけなので仕込みさえしっかりやっていれば日々の営業に支障はなかった。
特別な、大きな問題はなかった。だけど、一つだけ。人によっては些細なことだろうけれど、困っていることがあった。
*
「メールの内容からして、ストーカーの客を撃退したい、ということであっていますか」
「いえ、撃退したいという大袈裟なことでは……というか、そもそもストーカーと言っていいかもわからないんですが」
「というと、今のところ実害はないということですか?」
「はい、まあ……」
「とりあえず、詳しくお聞かせいただけますか」
淡々と述べてくる月島さんに、やはり私の気にしすぎでこのような人を頼むほどではなかったのではと萎縮してしまう。そもそもが自意識過剰だったのかもしれないと恥ずかしさすら込み上げてきた。
私の困り事。それは、常連のお客様からのとある行動だった。
その人が初めてお店に来たのは三ヶ月ほど前のことだった。
夏の暑さが例年より早く訪れた頃。ちょうど客足が途絶え姉が休憩して出掛けた時、ふらふらとした足取りで店先に入ってきたのがその男だった。カウンターを案内した後冷えた麦茶を出し、今日の日替わりの内容を伝え、朝定食と昼定食どちらにしますかと聞いたがぼーっとしたままだった。お決まりになったら呼んでくださいと言ったものの、麦茶を飲み干してそのまま一点を見つめ続ける様子に、軽い熱中症か何かではないかと思い慌てて麦茶のおかわりを注いだ。それから注文は受けていないが、お椀に氷と味噌汁を入れてカウンターへ運ぶ。男はぼんやりとしつつも戸惑いながら、「まだ何も頼んでませんが……」と言ったが、これはサービスなので飲んで下さいと差し出した。
男はおずおずとお椀に口をつけゆっくりと味噌汁を飲むと、半分ほど飲んだところでふーっと長く息を吐いた。そしてまた麦茶を飲んだ後、少しだけ顔色がよくなったように見えた。
「大丈夫ですか?」
「はい。すみません」
「急に暑くなりましたもんね。熱中症には、味噌汁ってとてもいいんですよ。食欲がなければ、おにぎり一個の朝定食をおすすめしますがいかがですか? もちろん、無理にとは言いませんが」
「いえ……あ、でもこの時間でも朝定食頼んでいいんですか?」
「便宜上そう書いてあるだけなので、ほら、メニューにも書いてある通り、いつでもどっちを頼んでいいんです」
「じゃあ、それで」
冷たい味噌汁のおかげで気分がいくらかマシになったのか、男は定食をゆっくり時間を掛けつつもペロリと完食した。何度もお礼を言いながら会計を済ませて帰っていく姿に、お節介だったかもしれないけれどいいことをしたなあと満足しながら見送った。
そう、本当に、私は余計なお節介を焼いてしまったのだ。まさかそれをきっかけに、毎日その男が店に通い詰め、困り果てることになるとはあの時は思いもしなかった。
ストーカー、と呼べるほどの出来事は特にない。店に通ってくださるだけで、営業時間外につきまとわれたり待ち伏せをされているわけではない。特に何か、接客以上の関わりを求められているわけでもない。嫌がらせを受けているわけでも、交際を迫られているわけでもない。
何もないのだ。ただじっとりと見つめられていること以外には。
初めての来店以来、男は毎日定食を食べにくるようになった。最初は、時間がまばらだった。近くにオフィスビルがあり、業種によって休憩時間もそれぞれなことはなんとなくわかっていたところだったので、この人は休憩が不規則なのだろうと思っていた。
だけど、それも次第に固定されるようになった。男は必ず、
ただそれだけ。本当にそれだけなのだ。必要以上に話しかけられることもない。これ以上の何かはない。
だけど私は、日に日に男が来店してくる時間帯が近付くと気持ちが重くなるようになっていた。
極め付けは、姉の妊娠がわかって店に出なくなった頃だった。常連のご夫婦とその男だけが店にいる時に、「最近お姉さん見ないわねぇ」とご夫人に話しかけられた。
「姉は少し体調を崩してまして、しばらくは私一人なんです」
「あら、大変ねぇ」
「まあ小さなお店ですし、そう長い期間でもないでしょうから」
そんなやりとりをしながらカウンターに目をやると、男が俯いたままにやりと笑っていたのだ。
「しばらくお一人、なんですね」
ご夫婦には聞こえないくらいに、だけど私の耳にはかろうじて届くくらいに小さな声でそう囁いたのを聞いて、全身が粟立った。
それからも、男は特に何もしてこなかった。ただ、食事の時間がいつもより長くなったことを除けば。
「――とまあ、こういうわけなのですが」
「なるほど」
「……すみません、やっぱり、気にしすぎですよね。これくらいで」
改めて口にして説明すればするほど、そんな気がしてきて俯いてしまった。
「いえ。まあ、男の俺にはわからない感覚ですが、女性としては怖いというか気味が悪いでしょう。実害がないからこそ、警察に相談することも難しいでしょうし」
思いもかけなかった言葉に、思わず勢いよく顔を上げてしまう。そうなのだ。これくらいだからこそ、誰かに相談するのも憚られた。だけど、そんな時にSNSで見かけた「レンタルこわい人」に藁をも縋る気持ちで頼むほど、どうしようもなく気味悪さを感じていたのだ。
「それで、具体的に自分は何をしたらよいでしょう。その男に注意をするとかですか?」
「いえ、あの……こんなお願いはありなのかわからないのですが……」
「どうぞ。時間内でできる限りのことなら承ります」
真剣に聞いてくれるこの人に、こんな事を頼んでいいのだろうかと躊躇う。確かにパッと見、筋肉質で表情も硬く、この人は
「そのお客様が来る時間帯に合わせて来店して、私の恋人のふりをしてもらえないでしょうか」
「……は、ぁ」
「もちろん、身体的な接触は不要です。そうではなくて、例えば、店終わった後どこに行くかという話をするとか、家で待ってるとか、そういうのを匂わせる会話をしていただけないでしょうか」
想像していた依頼内容とは断っていたのか、月島さんは依然として眉を上げてきょとんとした顔をしている。
「つまりその、直接何もされていないのに、直接何か注意するのも違うなと思いまして。だったら、喧嘩しても敵いそうにない相手とお付き合いしていると遠回しに匂わせたら、こういったこともなくなるんじゃないかと思ったんです」
そう、それで、依頼する際に「喧嘩の強そうな人(実際の強さは問いません)、ただしタトゥーが入っているなど反社組織等との関わりを連想させそうな人以外でお願いします」と伝えていたのだ。万が一他のお客様に見られた時に、この店はそういった人達と関わりがあると勘違いされてしまってはいけない。ホームページにこんな人材がいますという例の中に「格闘経験者(体格よし!)」の文言があったから述べた内容だったが、それで言うと月島さんはとても適任そうな人だったと思う。
ふむ、という顔でしばらく考えあぐねていた月島さんは、やがて「承知しました」と頷いた。
「では、早速明日にでもお伺いします。あらかじめ会話内容のパターンをいくつかと、その男が来る大体の時間帯を教えていただけますか?」
「は、はい。えっと、では……」
こうして私は、レンタルこわい人の月島さんに、恋人のふりをしてもらうことになった。
*
翌日、いつも通り営業していると、約束していた13時半ぴったりに月島さんは訪れた。まだ他にお客様はいたものの少しずつ減ってくる時間。いらっしゃいませと告げた後目配せをして、カウンターの一番端の席に座ってもらった。いつもであれば、あの男がもうそろそろ来る時間だった。
「ご注文どうされますか?」
麦茶を出してそう問う。こちらからの依頼なので、今日の食事代はいただかない旨は昨日の時点で話していた。ちらりと本日の日替わりメニュー――今日のメインはチキン南蛮――を見た後、昼定食のご飯大盛りを頼まれた。厨房に入ろうとすると、三人組のサラリーマンが会計を申し出たのでまずはそちらの対応をして、厨房へ戻った。
「一人だと、やっぱり大変そうだな」
不意にカウンターからそう声を掛けられて驚いて顔を上げた。もう恋人のふりは始まっているらしい。例の男が来ている時だけでも良かったのにとも思うが、何も返さないのも変だと思い「少しね。でももう慣れてきちゃったから」と親しみを持った声で返事をした。もう一組残っていたOLさん達は特にこちらは気にかけていないようで、食後のコーヒーを飲みながら談笑していた。
先ほど日替わりが出た後にすでに一度揚げておいたチキンをもう一度高温に設定した油へと入れ、二度揚げをする。その間に木製のお盆に小鉢を用意し、チキン南蛮に添える野菜を大皿に乗せていく。先にお味噌汁を注いだところで、チキンがいい感じに揚がったので油から取り出してザクザクと切り分け皿に盛り付け、特製甘酢だれとタルタルソースをたっぷりとかける。最後にご飯をよそってお盆に乗せて運んだ。
「お待たせしました。どうぞ」
そう言ってすぐにOLさん達からも会計を頼まれ、私たちは店の中に二人だけになった。
「……例の男は、まだですか」
「はい。店の前で見ている様子も、今のところなさそうです……とりあえず今は、気にせずご飯食べちゃってください」
「では、遠慮なく……いただきます」
きちんと手を合わせてそう言った後、月島さんは箸を手に取りまずは味噌汁を啜った。一口ゆっくり飲んだ後、「美味しいですね、これ。香ばしいというか」と述べた。
「今日はたっぷりのきのことキャベツが入った味噌汁なんですけど、先にじっくり炒めてるんです。だから少し香ばしいのかもしれません」
「なるほど」
「お店の名前に入れるくらい、ご飯と味噌汁にはこだわってるんです。ごはんも土鍋で炊いてるし、味噌汁も旬の野菜を使いながら日替わりで色々使ってるんですよ」
「うん。ご飯も美味しい。この二つだけで十分満足出来そうですね」
「それは嬉しいです。でも他もぜひ食べてみてください」
「もちろん、いただきます」
昨日の打ち合わせの時と変わらず真剣な表情のまま、だけど勢いよくご飯を食べていく姿がおかしくてクスッと笑いが溢れた。帰っていったお客様の食器を下げて洗いながら、窓の外の様子も伺いつつ月島さんの食べる姿を盗み見る。依頼のことなど忘れているように、美味しそうにご飯を食べる姿は純粋に嬉しい。
あっという間に空になった食器を見て、食後はほうじ茶とコーヒーどちらにするか尋ねた。ほうじ茶を望まれたので湯呑みに注ぎ出すと、それをゆっくりと飲み干しながら月島さんは振り返った。
「例の男、来ませんね」
「そうですねぇ……今まで、来なかった日の方が少なかったくらい、ほぼ毎日いらしてるんですけど……今日がたまたま、その来ない日だったのか……」
「ふむ……」
店の閉店時間は14時半で、ラストオーダーは14時。もうあと5分ほどしか残されていない。流石に今日はもう来ないだろうか。せっかく意を決してレンタルサービスを頼んだ日に限って来ないだなんて。時間単位でのサービスで、単価もそれなりにするからそう何度も頼めそうにないのにどうしたものかと思わずため息をついた。
「……期間延長しますか、と伝えたいところなのですが、実は問題がありまして」
「問題?」
「当レンタルサービス、始まったばかりなのですが終了が決まったんです」
「えっ、そうなんですか!?」
思わず大きな声が出てしまう。他に人がいなくてよかった。月島さんは深々と頭を下げた後、状況を説明してくれた。SNSでの反響が凄すぎて、問題視された事が原因ですぐにサービス終了になったこと。現時点で受けたものは応じるが、それ以降については追加依頼等受けていないこと。
「昨日の打ち合わせの後すぐに代表から連絡があったんです。なので期間延長という形も難しいかと」
「そう、なんですか……」
確かに、初めてSNSで見て以降賛否両論そうな意見は私も見かけていた。まさかそんなことになっていたとは思わなかったけれど、終了してしまうなら致し方ない。なんの解決にもならなかった事を正直残念には思うが、誰かに相談して寄り添ってもらえただけでも気持ちが楽になった、と思うことにしよう。そう思って顔を上げお礼を述べようとしたが、それよりも早く月島さんが言葉を発した。
「レンタルサービスとしては、期間延長は出来ません。けど、もしミョウジさんさえよければ、個人的に依頼を受けることはできます」
「……個人的に、ですか?」
「一度受けた依頼、乗りかかった船なので。もちろん報酬は、レンタルサービスを通さないのでいりません」
「え、でも」
「実は俺、レンタルサービスはスポットバイト的な副業で、この近くで本業があるんです。この時間帯なら出勤前なので寄るくらい出来ますし、仕事前に飯を食べるだけだと思えば、別に負担ではないので。ほぼ毎日来るような人物なら、一週間も通えばどうにかなるでしょうし、それくらいの期間なら」
淡々とそう述べる月島さんに、どう答えるべきか迷う。ありがたい申し出であることは間違いない、だけど、そんなに甘えてもいいのだろうかとも思う。答えられずにいると月島さんは、頭をぽりぽりとかきながら目線を逸らした。
「……偉そうなことを言いましたが、正直な話、飯が美味かったので……また頻繁に来る口実に出来たらと思っただけなんで、そう重く捉えないでもらって大丈夫です」
「え、あ、そういう。それは、あの、嬉しいです。はい」
いつでも食べに来てください。そう言いかけて、そうか、そういうことなら、これはどうだろうと思いつき提案した。
「では、あの、依頼の件が解決するまで、食事代はいただきません。無理のない範囲で、いつでも来れる時に来ていただけたら、私の方も助かります」
「いや、飯代くらいは」
「ボディーガード代、というのも変ですが。せめてそれくらいさせてください」
時間単位でレンタルサービスに支払う金額に比べたら些末な金額だ。従業員に賄いを出していると思えばいい。私は安心を買えるし、月島さんは一食分の食費が浮く。うちのご飯を気に入ってくれたというならこれで還元出来れば万々歳だ。
「……では、それで。仕事の関係や用事などで来れないときは事前にお伝えします。先日やりとりしていたのは業務用のメールアドレスだったので、個人的な連絡先を交換しておいてもいいですか?」
「あ、はい。……では改めて、今後ともよろしくお願いいたします」
初日は上手くいかなかったが、こうして私たちの妙な依頼関係は続くことになった。
*
ところが、それから一週間が経っても、例の男が現れることはなかった。窓の外から店を見ている様子もない。やはり、今までの出来事は私の気にしすぎで、あの視線や行動には特に意味はなかったのではないだろうかと思い始めていた。
「今日は秋刀魚ですか。いいですね」
「今年は豊漁らしいですね。脂の乗ったいいのが入ったんです。お味噌汁にはさつまいもが入ってますよ」
「すっかり秋の献立ですね」
今日は月島さんが来店した時には、もう誰もいなかった。月島さんも依頼のことを気にして、少しずつ時間をずらしてみたり様子を見ながら来店してくれているようだった。
「今日は、どうでした」
「今日も来ませんでした。やっぱり私の気にしすぎで、もしかしたらもううちの店に飽きてしまっているのかもしれません」
「ふむ……なら、俺もお役御免ということで、飯代払いますよ」
確かに、それはそれで筋なのかもしれない。でもどこかで、食事代は出さなくていいから月島さんには今後も通って欲しいと思っている自分がいた。閉店間際のこの店で、日々月島さんと他愛ない会話をしながら食事をしてもらったり片付けをしたりする時間が、私にとって憩いの時間になっていたのだ。こわい人どころか、心安らぐ人になるとは、まさか依頼した時には思わなかったけど。
はいともいいえとも言わない私を見て、月島さんはほうじ茶を啜りながら「まあ、もちろんまだ心配なら依頼継続ということで様子見にくるので、心配しないでください」と言った。
「では、もう少しだけ、お願いしたいです。ご飯代も、本当に大丈夫ですので」
「すみません、じゃあお言葉に甘えて」
「また明日も、同じくらいに?」
「ああ、はい。もしかしたら少し遅いかもしれませんが」
「お待ちしてますね」
閉店時間ギリギリまでいてくれるようになった月島さんを見送って、店じまいをする。シャッターを閉じる時にどこからか視線を感じた気がして周囲を見渡したが、特に誰もいなかった。神経過敏になっているのかもしれないと苦笑いを浮かべ、明日の仕込みをするためにもう一度店へと戻った。
*
ところがその翌日、月島さんは店に来なかった。ラストオーダーの時間が近付き他のお客様が帰ってしまっても、来店する様子はなかった。遅くなるかもとは言っていたけど、来れなくなったのだろうか。心細いというより、想像以上にがっかりしている自分がいた。やはり私は月島さんとの時間を大事に思い始めているのだと改めて気付く。
その時、ガチャリとドアが開く音がした。月島さんだと思い勢いよく振り返ったが、そこに立っていたのは別の人物だった。最近姿を見なくなっていた、
「あ……い、いらっしゃいませ」
「お久しぶりです」
「そうですね、お久しぶりです」
「まだ大丈夫ですか」
「はい、お好きな席へどうぞ」
いつも通りの接客が出来ているだろうか。麦茶を注ぐためのグラスが震えてしまっている。頬が引き攣るのを感じながらも、平常心だと言い聞かせてカウンターへと運びご注文はと尋ねる。
「昼定食で」
「わかりました。少々お待ちください」
「……今日は、あのひと、いないんですね」
厨房に入った瞬間そう言われ、ぎくりと心臓が跳ね上がる。あの人とは、月島さんのことを指すのだろうか。
「あの人、ですか?」
「最近、いつも来ていらっしゃる男性がいるでしょう。随分親しげですね」
「え、えぇ、まあ……」
ここ最近、店には来ていないし近くでも見かけなかったはずだ。だけど、何度も月島さんが来ていることを知っているということは、どこかから店の様子を探っていたのだろうか。食事をしに来るでもなく、わざわざ店内の様子を探りに? そう思うと背筋に冷たいものが走った。やはり今までのは、私の思い違いではなかったのではないか。
それ以上会話を続ける様子もなく男は、今まで同様じっとりと舐め回すようにこちらを見つめた。変にこちらから何か言うのもと思い、震える手を必死に落ち着かせながらコンロの火を入れフライパンに熱を通す。いつもと同じように、小鉢をお盆の上に並べていく。筋切りをして下味をつけていた豚ロースをフライパンへと並べ、じっくりと火を通す。時計をチラリと見ると、ラストオーダーの時間を過ぎていた。月島さんは、今日はもう来ないかもしれない。その事が余計に絶望的な気持ちにさせる。
店内にかけた控えめのBGMとお肉の焼けるジュウジュウという音だけが響く。会話はないのに、重い視線だけが絡まってきて息苦しさを感じながら、フライパンから肉を取り出した。食べやすく切り分け皿に盛り、玉ねぎをベースにしたソースをかけご飯をよそう。定食の出来上がりだ。さあ、これを持っていかなくちゃと思うのに、厨房を出ようとすると足がすくんでしまった。絡みつく視線を払うように背を向けて、小さく深呼吸をしていると、ドアが開く音がして振り返った。
「悪い、もうオーダーストップか? まだ間に合うか?」
「いらっしゃい、本当は少し過ぎ……てるけど、大丈夫」
この時に見た月島さんは、いつもよりうんと輝いて見えた。店内を見てすぐ敬語ではなくくだけた話し方をしてくれたのを察し、私も思わず敬語になりそうなのを崩す。月島さんは男から一つ席を空けてカウンター席へと座った。男が僅かに肩を震わせる。
先ほどまですくんでいた足は、不思議ともう大丈夫だった。麦茶を出す前に定食を手にして厨房を出て、お待たせしましたと男の前に並べる。
「今日は随分遅かったね。昼定食でいい?」
「用事が長引いてな。今日はポークステーキか、いいな。ご飯、いつも通り大盛りで」
「了解」
麦茶を注いだグラスを置く。不自然ではないだろうか、大丈夫だろうか。そう思いながらちらりと視線をカウンターへ運ぶ。男はちらちらと月島さんを盗み見ながら気まずそうにご飯を食べていた。月島さんは月島さんで、男の方は目もくれずカウンター越しに私へと話し掛けた。
「今日の味噌汁と小鉢、なんだ?」
「今日はね、ナスと油揚げのお味噌汁。小鉢はさっぱり春雨サラダと、カボチャの煮物だよ」
「いいな。ああ、腹減った。完全にナマエに胃袋を掴まれたな」
いつもはミョウジと呼ばれるのに、不意打ちで呼ばれた名前にドキリとして思わず顔に熱が集まる。
「もう、やめてよ他のお客さんもいるんだから」
「ああ、そうだったな。すみません、つい」
「え……あ、いえ……」
突然話しかけられた男は、視線を逸らし俯いたまま会釈をすると、今までで一番の速度で食事を済ませて席を立った。食後に出すほうじ茶も今日はいらないと言ったあと会計を済ませる。最後に何か言いたげにこちらをじっと見ていたが、月島さんが麦茶のお代わりを求めた事によって結局何も言わずに店から出ていった。
「……効果、あったでしょうか。これ」
「どうでしょうね。でもまあ、あえてこのくらい遅れて来てみてよかった。やっぱりあの男だったんですね」
「やっぱり、とは」
厨房に立ち月島さんに出す定食を用意しながら尋ねる。月島さん曰く、実は店に通っている間少し離れた場所からこちらを窺っている男を何度か目撃したのだと言う。だけど、男の身体的特徴はざっくりとしか話していないからそれが例の男かわからず、どうしたものかと思っていたらしい。時間帯をズラしてみたりもしたがなかなか現れないので、今日は思い切ってラストオーダーの時間を過ぎてから来店してみる事にしたとの事だった。
「窓の外は、気を付けて見ていたつもりだったんですが……」
「まあ、店内から窓の外を確認した時には死角になるような場所だったから気付きにくかったんでしょう」
「そうだったんですね……」
もしかしたら昨日感じた視線も、気のせいではなかったのかもしれない。最後まで実害はなかったけれど、やはり一連の行動はどこか気味の悪いものだったなと思う。定食を月島さんに提供しながら、それでもこれでこの件は終わりだろうかと胸を撫で下ろした。
「でも、きっとこれであの人ももう来ないでしょうね」
「どうですかね」
「え……」
「ああいう手合いの人間は、勘違いを重ねて暴走した上で、危害を加えてくる可能性もある。まだ油断は禁物ですよ。まあ、これまで何もしてくる勇気もなかったなら、そんな度胸もないかもしれませんが」
「そ、そんな……」
ようやく解決したと思ったのに。だけど、世間で見かけるストーカー事件のニュースなんかでは、確かにそんな事が起こりうるのかと目を疑うような内容も多い。また背筋が震える。
「そこで提案なんですが、今後店に来るだけじゃなくて帰り道最寄り駅まで送っていくというのはどうでしょう」
「……え?」
「引き受けた以上、俺は仕事を最後まで全うしたいんです」
「いえ、でも、そこまでしてもらうわけには」
不安がないと言ったら嘘になる。月島さんがそばにいてくれたら安心だし、何より嬉しい。だけど、そんなことまで頼むのは気が引けてしまう。そう断ろうとするのに、月島さんは箸も持たず真剣な表情で私の方へと向き合った。
「……あなたに何かあると、俺が困るんです」
「え、と……」
「さっきも言いましたが、俺の胃袋はすっかりミョウジさんに掴まれてしまいました。今更この飯を食えなくなるなんて、考えられません」
「え、あ、あぁ」
なんだ、そういうことか。一瞬告白なんじゃないかと思ってしまった。私がというより、この店がなくなると困るという事かと思わずがっかりする。
「仕事の前、ここに来て美味い飯を食べながら、あなたと談笑する時間がここ数日楽しみで仕方ありませんでした。これも依頼で、仕事の一つだとはわかっていたんですが」
「……私も、月島さんと過ごす時間、とても楽しかったです」
「これからは、飯代は普通に払います。客として来ます。でも、そのあとで、店が終わった後はあなたのことを守らせてくれませんか」
……いや、待って。あの、これは一体どういう意味で言っているんだろう。これもまた、私の自意識過剰で勘違いだろうか。でも。
「あの、それは、今後も依頼関係として、という事ですか?」
「……いえ、これは、個人的に。なんなら、あの男の事が解決した後も、俺はあなたを守りたいし、色んな時間を過ごしたいと思っています。……すみません、ただの依頼関係だった男がこんなこと言って。これではあの男と大差ないですね。もし、怖がらせたなら、忘れてください」
「いえ! そんなことは! あの……むしろ、嬉しいです。私も月島さんと過ごす時間が好きで、これで終わりだったら寂しいなと、思っていたので……」
最後は聞こえていないんじゃないかと思うくらい声が小さくなってしまった。それでも顔を上げれば、月島さんが嬉しそうに笑っていたので、きっと届いていたのだと思う。
「じゃあ、恋人のふりは終わり。今後は、本物、ということでいいですか?」
「はい、あの、よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
深々とお互いにお辞儀をした後で、すっかり冷めてしまっているはずのご飯を月島さんは今までで一番美味しそうに食べていた。
ひょんな事から始まった私たちは、本物の恋人となった。結局あれからあの男が現れなくなったけど、月島さんは相変わらず閉店間際に店に訪れる。私もそれから遅いお昼ご飯を一緒に取って、彼が仕事――近所のオフィスビルの夜間警備員をしていることをこの時ようやく知った――に行くのを見送るのが日課になった。
次の二人の休みには、美味しいものを食べ歩こうと話している。まあ何を食べてもナマエのご飯には敵いそうにないなと笑う彼に、私もその笑顔には敵わないなと顔を赤くした。
WEBイベント「ゴールドラッシュ‼︎」にて展示した作品です。レンタルこわい人の話題出た時に真っ先に月島さんじゃん…となりましたよね。