やさしい夜にしよう
重たい体をなんとか動かして静かに玄関の扉を開ける。時刻は二十時半。そんなに遅い訳ではないのかもしれないが、元々残業の少ない会社に勤めている私にとっては普段とは違う疲労感を全身で感じる。弁当屋と二足の草鞋の頃の方が夜はもっと遅かったのに、不思議なものである。場所や業務内容が変わると気分も変わるからだろうか。
先日、上司に弁当屋に手伝いに行く事は今後なくなりそうだと話してから、格段に残業量が増えた。ちょうど大口の取引が成立し業務量が増えたところに、急な欠員が出たため部署内が日々慌ただしくなっていた為だ。ある意味ではタイミングが良かったのかもしれない。
だけどそれは、私と月島さんの会う時間が奪われているという事でもあった。
月島さんと付き合いだして、ちょうどひと月が経つ。なのに、水族館へデートに行って付き合いが始まったあの日から、お互い仕事が忙しくなり会えたのは週末にほんの二回だけだ。社会人の恋人同士ならこれくらいが普通なのかもしれないが、それまでが週に三度は顔を見ていた相手だった為、正直物足りなさを感じていた。家も職場も決して遠くはないというのに、なかなか会う事の出来ない状態に歯痒さを感じる。
鞄を置き服を着替えながら、リビングの棚に飾ったフグ島さんにただいまと話し掛ける。手のひらサイズのふわふわとしたフグのぬいぐるみ、通称フグ島さんは頬を膨らましたような顔のまま私を見つめていた。
晴れてお付き合いが始まった水族館デートの帰り道、車で家まで送ってもらうと月島さんは思い出したように私にこのフグのぬいぐるみがついたキーホルダーをプレゼントしてくれた。てっきり鯉登さんにお土産を選んでいるのだと思っていたあの時間、私のために今日の思い出をとこっそり選んでくれていたらしい。何がいいかわからなかったけれど、フグが好きだと言っていたのでと額をぽりぽり掻きながら渡してきた月島さんがなんだか可愛く見えて、月島さんだと思って大事にしますと受け取った。それでフグ島さんと名付けたのである。まさかそんな名をつけて可愛がっているとは、当の本人は思っていないだろうけど。
月島さんはまだ仕事中なのだろうか。スマホを手に取りメッセージ画面を開く。一日に二、三通やり取りをするメッセージ。昨夜も今帰宅中だという内容が届いたのは日付を越えるか越えないかという時間だった。出来れば今日は会いたかったなとぼんやりと考えながら画面を閉じる。カレンダーには今日の日付に赤丸がついていた。
別にもういい大人であるし、初めての恋人というわけでもない。だからそんなに強くこだわりがある訳でもないけれど、付き合ってちょうど一ヶ月という日に少しでいいから顔を見たかったと思うくらいには、寂しい気持ちになっていたのだと思う。はぁ、と小さな溜め息を一つ溢して浴室へと向かった。シャワーの水圧でこの雑念を流してしまいたかった。
先程よりは幾分かさっぱりした気持ちで部屋に戻り、テレビを付ける。視聴率がいいと噂のドラマが始まっていたが、前話までを見ていないのでなんとなくの気持ちで流れてくる音声に耳を傾ける。残業の合間に軽くおにぎりは食べたけれど満たされていないお腹に、この時間から食べていいものかと自問自答しながらスマホを手に取る。数分前に月島さんから着信が入っていたのを見て、空腹も忘れて慌てて折り返した。長いコール音が耳に入り、出ないかと諦めた瞬間『もしもし』と月島さんの声が聞こえた。
「も、もしもし! すみません電話気付かなくて」
『いえいえ。今大丈夫ですか?』
「はい! お風呂上がって、ご飯どうしようかなぁなんて考えていたところです」
『ふ、そうなんですね』
「はい。月島さんはまだお仕事ですか?」
『えぇ、まあ』
「それなのに電話だなんて、何かあったんですか?」
『いえ……何してるかなあと思いまして』
「へっ」
『一服休憩していると、ふと声が聞きたくなりまして。……すみません、気にしないで下さい』
「……ふふ、嬉しいです。私も、月島さん何してるかなあ会いたいなあ、って思ってました」
『そう、ですか』
電話越しに、月島さんが照れた様子を感じる。目を瞑って額の辺りをぽりぽりと掻きながら照れ臭そうに笑う月島さんを思い浮かべた。
「お仕事、まだかかりそうですか」
『うーん、あと少しですかね』
「……大変ですね」
『はは、まあ慣れてるんで。……しまった、そろそろ戻らないと』
「あ、わかりました。お仕事頑張って下さい。無理しないで」
『ありがとうございます。少しでも声が聞けてよかった。では』
ピロリンと軽快な音を立てて電話が切れる。用件がある訳でもなく、空き時間を見つけて電話してくれた事になんだか嬉しくなる。その気持ちのままに、今話したばかりだというのに月島さんにメッセージを送る。
『電話、嬉しかったです。声聞いたらより会いたくなっちゃいました。次に会えるのを楽しみにしています』
次に約束をしていた週末までを楽しみにしているというつもりで送ると、少し間を空けて返事が届いた。
『この後、なるべく早く仕事を片付けるので少しだけ会いに行ってもいいですか』
珍しい申し出に『もちろんです』とスタンプを付けて返事を送る。先程までの空腹は胸が一杯になってしまってどこかへ消えてしまっていた。
会いに行っても、という事は私の部屋に上がるのかもしれない。最近あまり片付けられていなかった部屋を見渡していそいそと掃除を始めた。先程まであんなに体を重く感じていたのに、今は浮かれて部屋を片付けているのだから現金なものだ。
あらかた片付け、普段適当に着ていた部屋着を少し小綺麗なものに着替えてから、化粧を落とした顔にもう一度薄化粧をする。まだ一夜を共にしていない月島さんに、スッピンを見せるのは何となく憚られたからだ。そうこうしている内にスマホから通知音が鳴る。
『もう少しで会社を出られそうです。まだ起きてますか?』
先程のメッセージのやり取りからおよそ一時間。いつもよりも早く職場を出られそうな月島さんにホッとしながら、『もちろん起きてます。待ってますね』と返事をする。送った後で、月島さんはご飯を食べただろうかとふと疑問に思う。いつも仕事終わりに疲れ果てて弁当屋に来ていた彼の事だ、もしかしたら夕飯はまだかもしれない。慌てて米を研ぎ炊飯器の早炊きスイッチを入れ、冷蔵庫の中身を確認する。冷凍していた豚肉と鶏肉、それからきのこに卵・玉ねぎ・キャベツ・にんじん・大根……あまり充実していない冷蔵庫に、この間おばさんから野菜のお裾分けの連絡をもらった時先延ばしにせず取りに行けばよかったと後悔しつつ、とりあえず鶏肉を流水解凍していく。親子丼とお味噌汁なら作れそうだ。月島さんがまだかかるようならコンビニでもう少し何か買い足してこようかと悩んでいると、タイミングよくメッセージが入る。もう少しで着くらしい。そういえば教えていなかったかもしれないと部屋番号を返事を打つ。買い物に行く余裕はなさそうなのでひとまず野菜を切っていく。トントントンと軽快な音を部屋に響かせていると、ピンポーンという機械音が鳴る。手を洗い玄関の扉を開けると、会いたくてたまらなかった人物がそこに立っていた。
「月島さん! お疲れ様です」
「ミョウジさん、遅くにすみません」
「いえいえ、いいんですよ。会えて嬉しいです。どうぞ、狭いですけどよかったら上がって下さい」
「はい……でもあの、ちょっといいですか」
来客用にとスリッパを出していると、靴も脱がずに月島さんがそう言う。何だろうと月島さんの前に立ち見つと、不意に抱き締められた。段差によっていつもと身長差が逆転してしまい、私の肩口に月島さんの頭が寄せられる。
「はぁー……会いたかった」
「つ、月島さん?」
「この間の週末、仕事になってしまってすみませんでした」
「し、仕方ないですよ! 気にしないで下さい」
「……俺は会いたくて仕方がなかったです」
「……ふふ、私だってそれは同じです」
そっと抱き締め返しながら呟く。頬に月島さんの少し伸びた髪がチクチクと当たって、なんだかくすぐったくて少し痛い。だけど決して嫌ではないその感触を味わいながら、もう一度お疲れ様ですと小さく呟いた。
「こんなに会わなかったの、もしかして初めてです?」
「そうですね、付き合う前の方が会えてましたね」
「ふふ、本当ですね。さ、よかったら上がって下さい。ご飯はまだですか?」
「ああ、はい。ただ……」
「ただ?」
「最近、疲れからか珍しく胃の具合があまりよくなくて」
「えぇ!? 月島さんが? 大丈夫なんですか⁉︎」
そんなに驚かんでも、と笑いながら月島さんは私を見た。だって、どんなに疲れ果てていても揚げ物が入ったお弁当をご飯大盛りにしていた月島さんなのだ。驚くというより心配になる。
「でも、今ミョウジさんの顔を見たらなんだか食欲が湧いてきました」
「本当ですか? 無理してません?」
「本当ですよ」
嘘を言っている顔ではなさそうだけど、少し心配になった私は最近の食生活を聞いた。これは親子丼はちょっと重いかもしれない。
「すぐご飯用意しますので、適当に座って待ってて下さい。なんなら少し寝ててもいいですから」
「ありがとうございます。じゃあ、お言葉に甘えて」
そう言いながら月島さんは二人でやっと座れるほどのサイズにローソファーに腰掛けながら、ふーっと天を仰いだ。眠っている様子ではないが、目を閉じている。なるべく音を立てないように気を付けながら、味噌汁用に切っていた野菜達を更に小さく切っていく。普段はあまり使わない小さめの土鍋を取り出し水を入れ火にかける。出汁パックを入れて煮立たせている間に、解凍された鶏肉を小さく削ぎ切りする。ある程度経ったところで出汁パックを取り出して鶏肉と野菜を入れて煮ていき、少ししたところでご飯を投入する。醤油と塩、それからすりおろしたしょうがを少し加えて味を整え、最後に溶き卵を流し入れ冷凍していた小ネギを散らしていく。胃に優しいとり雑炊の出来上がりだ。
月島さんに声を掛けようと振り返ると、匂いに吸い寄せられたように少し離れたところでこちらの様子を伺う月島さんと目が合う。
「ふふ、いつからそこにいたんですか」
「美味そうな匂いがしたんで、つい。あと、料理をしてくれる後ろ姿を見るのはいいもんだなぁと思って」
「ふふ、何ですかそれ。さ、食べましょう。そっちに持って行きますから座ってて下さい」
テーブルに鍋敷きを置き、雑炊を鍋ごと運ぶ。二人分の取り皿とレンゲを並べると月島さんは私の顔を見た。
「実は、私もご飯まだだったんです」
「もしかして、待たせてました?」
「いえいえ。何となくお腹が空かなくて。でも、私も月島さんの顔を見たらお腹が減ってきちゃいました」
雑炊を取り分けながらそう言うと、月島さんは少し嬉しそうに笑った。
狭い部屋の中でローソファーに二人で並んで座り、ローテーブルを囲む。いつもよりグッと近い距離にドキドキしながらも安心する。二人でいただきますと手を合わせとり雑炊を食べ進めていくと、心も体もぽかぽかと温まっていく感じがした。
あっという間に鍋の中は空になった。一度食べ始めると食欲に火がついたのか月島さんは物足りなさそうだったので、やっぱり親子丼でもよかったかもしれないなと思ったが、まずは胃に優しい食事をした方がきっとよかったはずと言い聞かせた。鍋と食器を下げ、水を張り月島さんの隣へと戻る。
時刻は日付を越える少し手前。今日は平日中日で明日もお互い仕事である。いくら家と職場が近いとは言え、泊まって行ってはという提案をするのは少し躊躇われる。だけど離れがたい気持ちをどうしようと思っていると、月島さんが一点を指差して口を開く。
「あのキーホルダー、飾ってくれてるんですか」
「え? ああ、フグ島さん?」
「ふぐしま……?」
「あっ。ふふ、そう名付けてたんです。お気に入りなので、いつも目につくようにあそこに飾ってるんですよ」
「そうなんですか」
「会えない日も、あの子を見て月島さんの事考えてます」
「ふ、そうなんですか?」
笑いながらこちらを見る月島さんと視線が絡み合う。至近距離で視線が絡み合った恋人同士のする事なんて、きっと一つだ。恥ずかしくて目を逸らしたくなるのをグッと堪える。月島さんは少しだけ目を細めて、私の髪をひと撫でして、そしてそっと頬に手を添えて唇を重ねた。あまりに優しい口づけに胸がギュッと締め付けられる。目を閉じて続きを待てば、名残惜しそうに唇と手のひらが離れてしまう。どうして、と目を開けると困ったように笑った月島さんがそこにいた。
「……すみません、これ以上は止められなくなりそうで」
「……」
「明日も、お互い仕事ですし」
「そう、ですよね」
その先を期待した自分が恥ずかしくなり、今度は堪えられずに目を逸らす。そんな私の肩を月島さんは抱き寄せた。
「今度の週末は、絶対に仕事を入れないよう努力します。だから……」
「……だから?」
「……週末、二日とも俺に時間をくれませんか」
「えっ?」
「その……つまり、デートした後うちに泊まりに来ませんか」
「へっ」
頬が熱くなるのを感じながら顔を上げると、負けず劣らず熱を帯びた様子の月島さんが目に入る。返事なんて決まっている。
「もちろん、行かせて下さい」
「……ふ、よかった。死ぬ気になって仕事も部屋も片付けておきます」
「ふふ、そんな事で死ぬ気にならないで下さい。でも、楽しみにしてますね」
そう言って触れるだけのキスをした。時計の針は日付をとうに越えてもうすぐ半周を過ぎようとしていた。
名残惜しさが残るが、お互い明日も仕事だ。そそくさと帰り支度をした月島さんを玄関先まで見送る。
「すみません、結局ご馳走になるだけなって」
「いいえ。今日会えて本当に嬉しかったので」
「……では、また週末に」
「はい、楽しみにしてます」
「また連絡しますね」
「はい、遅いので気を付けて」
「……では」
去っていく月島さんの背中が見えなくなるまで見送り、食器を片付け顔を洗い寝支度をしてからベッドへと潜り込む。眠るのは遅くなったが明日から週末までの間は元気に駆け回れそうな気分だった。
週末、それはそれは甘い時間を過ごした後、この間が付き合って一ヶ月の日だったと知った月島さんが慌ててスマホのカレンダーアプリに記念日をメモしていたのは、また別の話だ。